2016'北九州平和の集い
~日々の生活の中で、キリストの平和を実現しよう~

カトリック平和旬間に入った8月7日(日)、北九州地区14教会では
各教会で行われる主日のミサを、第16回「北九州平和の集い」第1部
「平和祈願ミサ」として行い。統一の共同祈願や聖歌、「平和のための祈り」を
心を一つにして捧げ、午後からは小倉教会に集いグループ発表や平和講演、
子どもの広場、諸活動グループによる出店(平和活動アピール)、
平和祈願などが行われる「平和の集い」第2部が開催された。

 

「聞いてください。私たちの取り組みを」では、今年の北九州平和の集いの
義援金(献金)の送金先である東ティモールの聖イグナチオ学園
(イエズス会、浦善孝神父)の、教育を受けられない子どもたちへの取組を
「東ティモールのこと」と題してイエズス会、山内保憲神父(上智福岡)が今年の
1月から2月にかけて東ティモールを訪問し感じたことや、アジアで最も貧しい国、
15歳以下の子どもが全国民の40%を超える人口を占めると言われる
東ティモールの教育の現状は、植民地支配と言う長い歴史から複雑で難しい問題や
矛盾を抱えているということ、その中でも貧しい村の子どもたちに教育を受けさせたいという
活動の内容や日本の子どもたちを東ティモールへ送り共に学びながら、
これからの支援者を増やして行きたいと話した。
この他にも、「青年のボランティア活動体験」(東日本大震災被災地ボランティア)
「放樸のこと」(ホームレス支援)、「九条守りたい平和コント」(憲法問題)などの
取組の発表などが行われた

交流タイム(休憩)のあとの平和講演では、WYDクラクフ大会から戻ったばかりの
浜口末男 大分司教(大分教区長)が、いつくしみの特別聖年に行われる平和の集いと
いうことで、まず「いつくしみ」について確認してみたいと話し、創造主、神さまの心が「いつくしみ」
であるということ、神に似せられて造られた人間の心にも「いつくしみ」があるということ。
巡礼に例えて言うならば人間の最終目的は「いつくしみ深い人間」になると言うこと。
新約聖書の中で「いつくしみの」たとえと言えばルカの15章にありますが、中でも有名なのが
放蕩息子のたとえ話ですね、私はこの話に少し不満があります、前の二つのたとえ話は…
99頭おいて、あるいは9つの銀貨をおいて、たったひとつを探し回って行くという姿があるのですけど
放蕩息子の場合はそれがないですね。お父さんは心配してオロオロしているのですけれど
探しにまでは行かない、それはそれなりに意味がある…放蕩息子は気がついて、また父のところに
帰ろうといって帰って行く…自分の意思で自分の足で帰って行くということが大切なんですね。
ところがベネディクト16世教皇が、このたとえ話について解説をしているのですけど
今、見失われたこの人たちのところにイエスさまご自身が来ている、神の子が遣わされて
探しに来ているということだと、放蕩息子の話しを理解しなければいけないということなんですね。
ヨハネ・パウロ2世教皇は「いつくしみの聖人」「いつくしみの教皇」と言われていますね…
「いつくしみ深い神」という回勅を書いています。この中で、イエスさまは非常にいつくしみ深い方で
病人がいたらそこに行って治してあげるし、目の見えない人がいたら見えるようにしてあげる
「いつくしみの業」をずっと実行していたけれど最後の最後、神さまの一番のいつくしみが実現する
ときに逆に、ご自分がいつくしみを受ける側に回られたという説明がされています。
イエスさまの十字架によって神さまの「いつくしみの心」が最も表現されたのですから
イエスさまの十字架を思うことによって私たちに「いつくしみの心」が芽生えて行くのではないかと
思います。自分の中に眠っているといいましょうか神さまの似姿…神さまは人間を造られたときに
いのちの息を吹き入れられたと言われていますから、私たちがもともと持っているものだと思います。
それを呼び起こす…「いつくしみの心」と言うものは神さまから造っていただくものでもあるし、自分の
中から目覚めてくるものだと思います。WYDに日本の若者120名と一緒に行って参りました、
クラクフはポーランドにあります、ヨハネ・パウロ2世教皇様の母国です。皆さんヨハネ・パウロ2世
のことはよく知っておられると思いますが。このポーランドで教皇様の秘書をしていた枢機卿さまが
言われたこと…ヨハネ・パウロ2世教皇の故郷へようこそ、皆さんどうぞこのポーランド
の信仰の空気に触れてください、このお陰でヨハネ・パウロ2世教皇が生まれたのです…。
あなた方がこのポーランドにいるのは、神さまが、イエスさまが、あなた方を呼ばれたからなのです。
あなた方をここから遣わすために呼ばれたのです…と、ヨハネ20章のことばから話されました。
ポーランドと言えばアウシュビッツです…ホロコースト、アウシュビッツにも行ってきました。
コルベ神父さまが亡くなった場所…神父さまが亡くなった場所には入れなかったのですが行ってきました。
東京ドームが37個分くらいある広さです、映画でも見られるように線路の引き込みが沢山あって…
ここで多くの人がガス室に送られて毎日毎日、殺されていたんですね。
人間はどんなに酷いことでもできるものなのですね…それは何故か、人間を見ることができなく
なったというか目を塞いだということなのでしょう、だからどんな酷いことでもできる…。
コルベ神父さまは逆に人間を、人格を見ていた…。この人には子どもがいる、奥さんがいる
家族がある…だからこの人の身代りになると言ったのではないでしょうか。神父さまには
いつくしみの心があったと思います、共感すると言いますか、その人のことが良く分かると
言いますか…そこに大きな違いがあると思います。教皇様は「無関心」と言うひとつの
現代人の大きな欠点をあげています、「無関心」の逆のところが「いつくしみ」ではないかと
思います。枢機卿の話された聖人パウスチナは大変な時代を体験し、大変な経験をしながら、
神さまのいつくしみにすがって生きてきました。それがなければ本当の平和はないということです。
その精神を引き継いだのがヨハネ・パウロ2世です、そしてフランシスコ教皇は第2バチカン公会議
が終わって50年にあたる今年を「いつくしみの特別聖年」と定めたわけです。
時間が来ましたがあと一つ、今、日本の司教団は新しいメッセージを準備しています。
ラウダート・シと言う回勅がありますね、それを基にして書いてあります。原子力発電所に対する
反対意見、撤廃しましょうというアピールです。勿論このメッセージを説明する文書も出します…
どうしてかと言うと、日本は原爆が落ちた唯一の国であるということ、そして大変な原発事故も
ありました。体験があるからこそ…アウシュビッツのような悲惨なことを二度と起こしては
ならないという使命からポーランドでは「神さまのいつくしみ」を世界に発信しました。
このように日本の司教団も一つの使命を感じています。もうすでに一度はアピールを出した
のですけど、もう一回出しましょうと言うことです。これをアジアの正義と平和協議会の場で
菊池司教さまが参加しアピールを出しますと言ったわけなんですけど、バチカンの担当者から
出してどうするんですか、ただアピールを出して政府に送りつけたところで見られることもなく
ごみ箱に捨てられますよ…本当に日本の司教団がやる気があるのならば、自分の足で持って
行き、直接首相に手渡してください。日本だけで原発をなくしたところで同じです…本気ならば
原発を推進する他の国にまで行って、足を運んで手渡して話をしてくださいと言われたそうです。
本当に効果のある活動であるならば足を運んで…それをやるかどうか、やれるかどうか
日本の司教団が試されるのではないかと思っています。ちょっとまとまりのない話しに
なってしまいましたが、この「いつくしみの特別聖年」に、本当に神さまのいつくしみに
気付いて、そこから大きな喜びをいただいて私たち一人一人が、いつくしみ深い人間になる。
そこから本当の平和が…キリスト教でいう平和が得られるということではないでしょうか、
と話し講演を終えた。

 
 
 
 
     
     

聖堂でのプログラムと並行して行われていた子どもの広場では信仰育成部会が中心と
なって大塚了平神父(直方・田川教会)から「良きサマリア人」の話しを聞き、また「身近で苦しみの
中にある人々を思う」と言う内容で、熊本地震で被災された手取教会の信者さんに話を聞き
学び、私たちができることを考え感想を作品として仕上げて奉納した。
北九州市をあげての祭り「わっしょい百万夏祭り」開催中のためか、参加した子どもたちも少なかったが
奉納のあと、バンド演奏にあわせ見事な歌と手話の振付を元気よく披露してくれた。
真夏の猛暑の中の「平和の集い」信者さんの高齢化なども進み、年々参加者が減って来ている感は
ぬぐえないが、平和を願うこと、祈ることだけではなくイエス・キリストを信じる者として集いに参加し
キリストの平和の実現について考えることも大切なのではないだろうか…。
いつくしみの特別聖年の「平和の集い」…一人ひとりの心に「いつくしみ」がなければ決して
平和は実現することはないと思う、信仰を育み神の国へ近づくためにも努力することは必要だと感じた。