博多のキリシタン史跡を紹介
(香正寺)


 
行ってみよう博多のキリシタン史跡(8月号)
香正寺 福岡市中央区警固1-5

大名町教会では「信仰年・高山右近・黒田官兵衛」に因み、
「博多のキリシタン史跡」を、6月の広報紙から1か所づつ掲載しています。

左端の墓碑が、直之の養女
長光院よしの墓。
右端の墓碑がよしの養父黒田直之の墓。
3年前別のお寺から移築。
 香正寺は1632年、日延上人によって開かれた日蓮宗のお寺。
日延上人は朝鮮王族で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の捕虜として加藤清正に育てられました。
僧侶となり、後に黒田忠之とその母の帰依を受けました。 地域の人から、
「黒田のお姫様」と呼ばれているこの寺の開基は、キリシタン武将として知られた
ミゲル黒田惣右衛門直之(如水黒田孝高の弟で、兄と共に黒田家の礎を築いた人物)の養女、
長光院よしです。 
よしの実の両親は毛利元就の9男シモン秀包、母は大友宗麟の娘ドナ・マセンシアです。
黒田直之は1601年毛利家の人質として福岡に送られてきた
よしを、「私には女の子がいないので養女にしたい」と願い出ました。
黒田直之とよしの父はもともと大変親しい間柄だったといいます。 
黒田家の養女となったよしは、15歳で藩の重臣吉田壱岐重成に嫁ぎましたが、
1609年に養父直之が亡くなると夫がキリスト教を嫌うようになったことを
彼女は手記に書き残しています。 また、3年前この香正寺には、別の古寺で
無縁仏となっていた黒田直之の墓碑が引き取られています。
筑前キリシタンの柱といわれたミゲル黒田惣右衛門直之は1609年に亡くなり、
長崎の教会に葬られましたが、禁教令とともに墓は不明となりました。
直之の家は、跡を継いだパウロ長門が1611年に不慮の死を遂げ(暗殺説あり)
次男、三男の相続は許されず、直之の妻マリアも筑前を離れました。
後に次男は許されて黒田家に戻り、香正寺の墓碑はこの次男とその子孫によって
仏式にて造りなおされたものです。