博多のキリシタン史跡を紹介
(白毫寺)


高山右近と能古島?

1587年7月24日夜、秀吉は高山右近に何の予告もなく「キリシタンをやめるか、
それとも総ての身分を失い、自分自身、父、妻、子供たち、親族家臣の総てが
自分のために追放され、非常に貧乏して何もなくなり、場合によっては
飢え死にするか」という伝言を伝えてきました。
高山右近は直ちに大いなる熱意を持って「私はキリシタンであり、
家臣をキリシタンにしてそれを大きな富と思っている。殿下がもしそのために
追放しようというのであれば喜んで追放を受け入れ、領地を返すでしょう」と答えました。
秀吉はその答を聞くと怒りに満ちて高山右近の追放を命じました。
 翌早朝、高山右近は家臣たちに自分が追放になったことを話しました。
身分の剥奪については残念に思わない。むしろ自分の信仰の証をしたいと
思っていたので処分の理由がこのようなことであるのは喜ばしい。
ただ、ついてきてくれた家臣たちに何もしてやれないのが悲しいといいました。
家臣たちには、死ぬまで信仰を堅持して良きキリシタンとして生きて欲しい。
また、皆が妻子を養うために最良の手段を探し、ほかの領主に
仕えてもらいたいといいました。それを聞いた家臣たちは泣きながら、
死ぬまでお供したいと言い、髻を切りました。
高山右近は彼らの愛情に感謝を示した後、彼らを長い時間説得しました。
そして、一同に暇をとらせ、自分は3~4人の若い従者とどこかに引きこもるつもりだと話しました。
 また、高山右近の友人であった多くの武将が右近を説得しようと博多を訪ねてきました。
 高山右近はそのような人々の気持に謝意を表しながらも、
自分の決心は変わらないことを伝えました。
しかし、同じようなことをいう人々があまりにも多かったので、夜分ひそかに船に乗り、
博多の真向かいにある、ある島に身を寄せることにしました。
そこには漁夫の家が2・3軒あるのみでした。
    (フロイス日本史から)

 
行ってみよう博多のキリシタン史跡(12月号)
白毫寺 (福岡市西区能古島への渡船場近く)

大名町教会では「信仰年・高山右近・黒田官兵衛」に因み、
「博多のキリシタン史跡」を、6月の広報紙から1か所づつ掲載しています。

白毫寺は、中世の姪浜を形成した興徳寺の塔中から独立した寺院です。
1692年、この寺の竹林から十字架が掘り出されました。
見ていた子どもが欲しがって持ち帰りますが、母親が恐れて役人に届け、
黒田藩から長崎奉行所に届けられています。(発見されたときの寺の名前は円福寺)
 姪浜には1560年代、キリシタンの村があったといい、
1587年にはイエズス会の副官区長コエリュとフロイス神父が
1週間滞在しています。フロイス日本史より