博多のキリシタン史跡を紹介
(黒田如水の墓と葬儀)


 
行ってみよう博多のキリシタン史跡(最終稿)
崇福寺

黒田如水は1604年4月 日(旧暦の3月 日)に亡くなりました。
如水の亡くなった場所、葬儀と埋葬地については諸説がありましたが、1975年、
ローマで出版された「マトス神父の回想録」によって次のような事が明らかになりました。
◆回想録から
 「この年の初めに、黒田如水は上において死去した。既に健康が思わしくなく、また、
自分の家で死してはならないことは、大名たちの慣わしであるので、彼は治療のため
そこへ行っていたのである。そして臨終の際、彼は告解するために神父を呼ぶように願った。
ところが彼の側近は何故かと言って神父を呼ばなかったので、彼は死ぬ前に告解することが
出来なかった。 しかし彼は、アニュス・ディとロザリオを持ってくるように願い、自分はキリシタン
として死にたいといいながら、それを胸の上に置いた。
 それから自分の遺体を、博多の神父のもとに運ぶように命じ、また、自分の息子には、
領内において神父たちに好意をよせるように、と遺言の中で言った。そして同じ遺言の中で
イエズス会に2千エタス(約320石)をあたえた。すなわち一千エタスを長崎の管区長に、
一千エタスを博多において教会を建立するためにあてた。

 彼の遺体が上から博多に到着した時、いったん我らの所に安置され、そして僅か数日の間に、
極めてきれいな装飾のほどこされたかん、すなわち彼を納めた小さな葬台が出来上がった。
それで、4月のある夜の 時と 時の間、我らは彼を博多の町の郊外にあってキリシタンの墓地に
隣接している松林のやや高いところに埋葬した。葬列の時、彼の嫡男筑前殿および領国の主だった
家臣が彼の遺体に付き添い、年寄衆、諸城の城番(彼らは転んだキリシタン)は棺を担い、彼の弟で
真の立派なキリシタンであった惣右衛門殿が十字架を掲げ、その一人の息子佐平次殿と、町の支配人
徳永宗也の孫で、高木彦左衛門の息子が松明を持ち、ペトロ・ラモン神父と私(マトス神父)はカッパ
(半円型の祭服)を着し、修道士ニコラオ(永原 福永ケイアン)と同宿たちはソプレリチェス(短白衣)を
着ていた。 葬列は穴に近いところから始まって板で仕切った大きな構内で行われたが、その中へは
領国の貴族以外の誰もの立ち入りが死刑の下で禁止されていた。(中略)
 それから、 15日か 20日後、筑前殿は父のために異教徒の方式の葬儀を行った。というのは、彼が
背教者でありそれを天下(幕府)に対して表したく、一方彼はかほど重要な国の国主であって、その葬儀を
極めて盛大に行わなくてはならなかったからである。」

 ガブリエル・デ・マトス神父は、1604年から秋月教会に5年、その後、博多教会で1年半を務め、黒田家の
人々とは特に親しくしていた方だと言われています。「回想録」は1622年頃、追放先のマカオで書かれ、
長い間、イエズス会の書庫に保管されていました。
◆葬儀に参加した人物が残した貴重な記録によって、如水は京都で亡くなり、遺体は福岡に戻ったことが
分かりました。葬儀は2度行われていました。しかし墓については今も謎のままです。
昭和25 年、崇福寺黒田家墓地の改葬の際、如水の墓の下に遺体はなかったからです。
マトス神父が書いた「博多の町の郊外にあってキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高いところ」とは、
どこだったのでしょうか。

崇福寺(如水墓所)
 

如水の命日といわれる3月20日(木)、黒田家菩提寺である崇福寺内の墓所で命日祭が行われます。
 命日祭を主宰する「藤香会」と崇福寺のご厚意で、カトリックでの追悼の祈りを捧げる
時間を持つことになりました。午後1時からの開始です。別途、聖歌隊が編成されていますが、
一般参加者も入場できますのでどうぞご参加ください。