~教会の明日を担って~
教区信徒協研修会



9月22日(土)カテドラル大名町教会に於いて
テーマを「教会の明日を担って」~原発の司教団メッセージから
キリスト者の生き方を学ぶ~として、教区信徒使徒職協議会主催の研修会が行われた。
はじめの祈りとして、今年10月11日から始まる「信仰年」へ向け教皇ベネディクト16世が
出された自発教令「信仰の門」の一部が朗読されたあと福岡教区長、
宮原良治司教より昨年11月に出された日本カトリック司教団メッセージ
「いますぐ原発の廃止を」についての基調講演が行われた。


基調講演のはじめに宮原司教は、テーマの選択~キリスト者の生き方を学ぶ~について
教区の年間テーマとつながるものであり「信仰年」開催を直前にした時期に叶う内容を
選んでいただいたことについて感謝したいと挨拶をし、また福岡教区長として就任して
5年目になるが、こう言った形で信徒の皆さんの前で、まとまったお話をさせていただくのは
はじめてになります、そう言った意味でも感謝したいと話され本題に入った。
まず、この司教団メッセージがどういった背景から出されたのか、次に東京電力
福島第一原発の事故から見えてきたもの(この事故を通して何を学んだか)、
そして司教団メッセージの骨格(なにを司教団は呼びかけたいのか)の3点から
お話しさせていただきます。司教団メッセージと言うのは16司教区の司教全員が
一致しないと出すことはできません、第一にこのメッセージの背景にあるものとは
日本の教会の歩みと方向性にあると言えます。1984年に日本の司教団は日本の教会の
基本方針と方向性を出しました。その中で「開かれた教会」(社会と共に歩む教会)・・
教会と社会が遊離しているのではないか?信仰と生活が遊離しているのではないか?課題を
しっかり見据えながら、それを改善して行こうというのが日本の教会の基本方針であり
優先課題であり方向性です。これは第二バチカン公会議の方向性でもあります。
今年の「信仰年」は、この第二バチカン公会議の開始を記念してバチカン公会議の
精神にもう一度もどろうと言うのが「信仰年」の意味合いでもあります。
教会の本来のあり方を見つめ直し、立ちかえり、社会と共に歩もうというのがその精神です。
社会と共に歩みたい・・今、日本の社会から教会が何を期待されているのか?
そう言ったものを真摯に受け止めながら司教団メッセージは考えられました。


~現代社会憲章の序文~この教会の心と言うものは今も新鮮味を帯びて私たちに迫ってきます。
この世の中にある全ての喜びや希望、悲しみや苦しみをカトリック信者である私たちも
同じように共有したい、避けて通りたくない・・それが教会が社会と共に歩むと言うことです。
こう言った背景の中から生まれてきたのが司教団のメッセージです・・・。
福島の原発事故と言う、現実を前にして日本の司教団が何を学び、どのように考え
今後どうしたらいいのかを全ての人に表明したいと言ったことからメッセージは出されています。
次に事故から見えてきたものは二つほどにまとめられます。一点目は安全神話の崩壊・・・
絶対安全と相対的な安全と言いますか、事故は起こると言うことを前提に安全だと
言うのが相対的安全・・・私たちは原発に対して絶対安全だと思い込まされていたと言うこと。
しかし事故は起こってしまった・・・つまり一つ目に見えてきたことと言うのは絶対安全と言うことは
ありえないと言うこと、事故が起こることを前提にして考えなければいけないと言うことです。
このことを前提に考えると、今回の事故も地震と言う自然災害から起こっていますね・・
日本は世界有数の地震多発国です、地震の数も多い規模も大きいと言うのが日本の現状です。
この現状から今後、東日本大震災を上回る規模の地震災害が発生しないとは誰も言えない
これからも巨大地震(震災)による原発事故の可能性はあり得ると言うことですし、また人災による
事故の可能性も全くないとは言えない。3番目にテロリストによる破壊工作の可能性・・・
そして起こしてはなりませんが国家間の戦争や紛争によるミサイル攻撃など・・・
一つ一つを可能性として考えてみると原発が絶対安全だと言うことはあり得ないと言うことです。
二つ目に見えてきたこととして原子力そのものが生命を脅かす危険そのものであると言うこと・・
事故がなくても、あっても原発の存在そのものが生命を脅かすものであると言うことです
このことは事故がなくても原子力の燃料であるウラン採掘の段階から使用済み燃料の廃棄物処理に
至るまで常に放射能汚染の危険性が伴うと言うことです。まだその処理技術は確立されていません。
事故がなくとも使われた燃料(放射能汚染物)は溜まる一方であり放射能汚染の危険性は
高まります。また放射能汚染の危険性の高い仕事などが、より弱い立場の人々に
強要される恐れがあることも言われていますし、使用済み核燃料であるプルトニュウムは
原子爆弾(核兵器)の材料にもなります。つまり可能性として原子力の平和利用と言うことと
軍事目的と言うことが表裏一体の関係にあると言える。さらに事故が起こった場合、
子どもの被爆は次の世代へも影響を及ぼします、もちろん放射能の被害と言うのは一時的、
部分的なものでは収まらないと言うことです・・これは可能性ではなく現実に今、福島では
事故から一年半経っても・・未だに十数万人もの方々が避難生活をおくっている、この方たちが
どれほど苦しんでいるのかを見ればお判りでしょう。一旦事故を起こすと、いのちを脅かしますよ・・・
こう言った意味で原子力発電所は平和利用しているから安全だと言いきれるのか?


これが私たちがこの事故から学んだ二つのことです。最後ですけれど司教団メッセージは
二つのことを呼び掛けています。一つ目は「原子力発電所の即時廃止」‥今すぐにと言うことです
私も・・今すぐにと言うのは、あまりにもむごすぎると思い段階的にとも考えましたが・・今直ちに、
今しないと意味がない・・これだけの体験をしながらと・・世界中のキリスト者は日本の司教団が
何を発言するのかを待っている・・・今、このことを発言しなければと言うことです。これは
危険にさらされる、いのち・・自然・・環境を守りたいと言う福音的な視点に立ってのことです。
原発の推進はどちらかと言えば人のいのちを危険にさらすようなリスクを冒してまでも
利益や効率を優先する経済至上主義・・こういったものが選択の理由にあるのではないか?
私たちはそう言った経済至上主義ではなく、いのちを大切にしたい、自然を守りたい、環境を
守りたい・・・なぜなら、いのちと言うものは神さまから創造されたものであり最後に
人間をつくり、その被造物を人の手に委ねた。しかし神さまが委ねた同じ被造物ではあっても
原発はその範囲を超えるのではないか?人間の能力を超えているのではないか?
神さまが人の手に委ねたその域を超えていると考えるならば私たちは、福音の教え・・
神さまの望みに叶うような生き方を選択したい・・いのちを大事にしたい危険にさらすようなことは
避けたい・・・それが第一の理由です。さらに言えば倫理上の管理する力・・
つまり使用済みの放射性廃棄物、放射性危険物の保全管理の責任を半永久的に
後世の時代に負わせることになります。今の私たちが責任を負えるのならば良いのですが、
次の世代にも負わせることになります。国策としても原子力エネルギーの推進は
逆に言えば自然エネルギーの促進普及を後退させるのではないかと言うことです。
また原子力エネルギーはクリーンなエネルギーと言われますが本当にそうなのか?
結果としてあの事故の時に原子力発電所を維持するために化石燃料を使った
電力での制御が必要だった・・・また開発の実施地域では経済支援や
補助によって経済的な依存関係を作ってしまっている・・合法と言う名のもとに危険だと
わかっていてもやらざる得ない仕組みを作り上げているということです。もう一つは
ただ原発の廃止と言う事だけではなく、電気エネルギーからの脱却といいましょうか・・?
生活の在り方の転換・・つまり今のような生活を続けるならば電気はもっと必要ですが、
今の生活を改めようと言うことです。大量生産大量消費という今の生活の営みを考えるとき
(豊かなところには捨てられるほどモノがありあまり、貧しいところにはない)あるものを
全ての人の幸せのために分かち合い使うという清貧の勧めということです・・・何かに執着する
拘束されるのではなく、そう言ったものから解放される自由な心を持ちたいということです。
~何も持たなければ生活は出来ない・・そう言ったことを言っているのではなく~
あるものを全ての人の幸せの為に、いかに使うことができるかという姿勢が大切だと言っている
のです。そう言う覚悟が必要だと言うことです・・と、司教団メッセージについて話された。

 
     

午前中と午後、基調講演や福島からの訴えの映像を見、またグループ発案などを
受けて行われた分かち合いでは、メッセージについて共鳴できるところや、
それぞれが感じたこと、また東日本大震災被災者支援についてなど
それぞれの思いが話し合われた。極論ではなく現実を見つめながら私たち一人ひとりが
キリスト者として、どう考え生きて行ければ良いのか?何ができるのか?
そこにキリストの姿があり神さまの願いがあるならば一人一人は右でも左でもなく、
まっすぐに見つめて・・それぞれがしっかりと判断し信じて歩む必要があると感じました。