待降節第2主日 12月4日

 行動を要求する「回心」

【メッセージ】
 14〜15年前に見た不思議な夢の一部が未だに
くっきりと記憶に刻まれています。
─ 夜の遅い電車に乗っていました。
各駅停車だったのに この電車は速度も落とさず
各駅を通過していました。
終点まで乗る予定だった私は快速電車にでも乗った気分で
うれしくなるはずだったのに、なぜか不安を抱き始めました。
他の乗客は眠りに陥り、この不思議な出来事に気づいていないようでした。
 盲目的に夜の暗闇の中を暴走しているこの電車を不気味に感じて
次第に各駅に 止まることに魅力を感じ、各駅停車の大切さを
ますます身に染みたところ、タイマーをセットしていたラジオの
スイッチが入り、朝のニュースで目が覚めました。
…この夢を待降節の典礼と結び付けることはおかしなことでしょうか。
4つのエピソードに分け、ドラマのように作られている待降節の典礼。
私たちはこのドラマのクライマックス─イエスのご降誕の祝い─を
知っているので、私が見た夢の電車のように各駅停車
─待降節の各主日─の大切さを時々見逃しているのではないでしょうか。

 待降節は信仰における旅への招きです。その旅の出発に当たって
先週は神の訪れに気づくために「目を覚ますように」と
イエスから呼びかけられていました。
今週は洗礼者ヨハネを通して「回心するように」と催促されています。
 ヘブライ語で「神に立ち返る」、ギリシャ語でも「方向を変える」、
さらに「発想の転換、生き方の変更を行う」ことを意味している
「回心」という言葉をどれだけ私たちは聞いたことか。

ところが自分の生き方を正直に見つめれば、
これまでに何が変わったのでしょうか。
「聞く」だけではなく、「聞き入れ」「聞き従う」ように
真剣に努めなければ 何も変わりません。
─「この民は口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、
心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29、13)というイザヤの言葉を
肝に銘じて、「回心」の呼びかけが効き目のない薬のようなものに
ならないために、今年の待降節の間にこそ 具体的で痛みを伴う変化を
本気で自分に要求し、確実に実行しようではありませんか。

           (行橋・豊津教会主任司祭・べリオン・ルイ神父)