待降節第3主日 12月17日(喜びの主日)

喜びを呼び覚ます

〔聖書朗読箇所〕
 第1朗読  イザヤの預言(イザヤ 61:1-61:2a5、61:10-61:11)
 第2朗読  使徒パウロのテサロニケの教会への手紙
                 (1テサロニケ 5:16~5:24)
 福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ 1:6~1:8、1:19~1:28)

年の瀬が迫り、気忙しい日々を過ごしています。
そして、クリスマスもあと一週間後に迫りました。
待降節(たいこうせつ)3週目の日曜日は「喜びの主日」とも言われます。
「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」
(フィリピ4章4−5節)

正直、私は戸惑いを覚えました。
気忙しさ、体調不良、それに追い討ちをかけるような心の古傷の痛み。
親しい人々の悲しみや苦しみ。不穏な社会情勢。
このような状況にあって「喜ぶ」とはどういうことなのでしょう。

教皇フランシスコは使徒的勧告『福音の喜び』の中で、
次のように述べています。

「人生のどのような段階や状況でも、殊に苦しい状況では、
つねに同じように喜びに生きるわけにはいかないことは分かります。
しかし喜びは、状況に応じて変化しつつも、
消え失せることは決してありません。
それが、自分が無限に愛されているという個人としての
確信から生じるかすかな光であるとしても。
大きな困難に出会った人の苦悩は理解していますが、
少しずつ、けれども確実に、信仰の喜びを呼び覚ます必要があります。
深刻な不安の中でも、背後にしっかりとした信頼が芽生えることを
待ち望みたいと思います。
『わたしの魂は平和を失い、幸福を忘れた。
……再び心を励まし、なお待ち望む。
主のいつくしみは決して絶えない。主のあわれみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
……主の救いを黙して待てば、幸いを得る』
(哀歌3・17、21−23、26)」(『福音の喜び』第6番)

この「信仰の喜び」について思いめぐらす中で、
イエスの受難の場面の犯罪人の信仰が心に留まりました。
イエスの隣で十字架につけられていた犯罪人はイエスに言います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください。」
するとイエスは応えられます。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
(参照:ルカによる福音23章39〜43節)
イエスご自身が痛み、苦しみ、蔑み等、
身体的にも精神的にも苦痛を味わうなかで福音を宣言されます。
この犯罪人は信仰の喜びを体験したのではないでしょうか。

聖書の中で喜びが語られるとき、そこには<主の前にへりくだる心>
(主の思いとわざを心の中心におくこと)と<主への信頼>が
あるようです。
絶望的な状況にあっても、
自分自身の弱さに苛まれても、再び信仰と希望をあらたにし、
イエス・キリストを迎える喜びを共に分かち合えればと思います。

                    (執筆者:平尾千衣子)