イエスの復活に関する弟子たちの証言を通して

4 月30 日(日)カトリック小倉教会において、今年度2回目となる北九州地区聖書講座が行われた。
年間テーマを「近づいて来られるイエスを知り、イエスと出会う」~福音書をとおして典礼季節とともに~
として、今回はイエスの復活の「証言」をとおしてをテーマに、パリ外国宣教会のベリオン・ルイ神父さまを
講師に迎えて開催された。

2週間前に私たちは復活祭を迎えました、今日は復活節の第3主日ですね。
今年の聖書講座の年間テーマにもあるように、典礼季節に合わせて
イエスの復活に関する弟子たちの証言を通して、お話ししようと思います。
イエスの復活を伝えている書物は沢山ありますが、一番古い…
イエスが生きていた頃に一番近いものは何か、これが大事だと思います。
それは使徒パウロのコリントの信徒への第一の手紙だと思います。
イエスが生きていた頃に一番近いと言うことがどうして大事なのか、
出来ごとに近いと言うことは信ぴょう性が高いと言うことです。
この手紙の中でパウロは何を言っているのか(15章1節~8節)
~キリストが聖書に書かれていた通り、私たちの罪の為に死んだこと、
葬られたこと、また、聖書に書かいている通り三日目に復活したこと…
そして最後に月足らずで生まれたような私にも現れました~
また、使徒言行録などにも記録されています。
ところが、パウロの手紙をはじめ、福音書を読んでも肝心なことについて
何も書かれていません。イエスが復活された瞬間について何も書かれていません。
弟子たちは自分の目で見ていない…イエスがどのようにして復活されたのかを
知りません。弟子たちが見たのは「空になっていた墓」とそこに置いてあった
「亜麻布」と「覆い」だけです。
では何故、弟子たちはイエスが「復活された」という「信仰宣言」に至ることが
出来たのでしょうか。
それはどの書物を読んでも答えは同じなのですが「イエスは生きて現れた」からです。
ここで少し言葉について説明しますが、原語から「復活」とは、「眠りから覚ます」
と言う意味と、「横たわった状態から立ち上がる」と言った意味があります。
また、イエスが現れた…「出現」を伝えるためにどのような言葉を使ったか、
一番古いのはマルコ福音書に書かれている~イエスはご自身を表された~と、
言う言葉です。ヨハネ福音書21章にも同じ表現が使われています。マタイの場合は
~イエスは行く手に立った~。ルカの場合は~イエスご自身が彼らの真ん中に立った~
ヨハネでは~イエスは真ん中に立った~となっています。
時が経ち、このイエスの出現の意味に対する理解が深まると、イエスの出現と言うのは
物語を通して伝えられるようになりました。
私たちは、イエスが復活しておられるという話を読んでいる時に、すぐ、あること…
「違う」ということに気づくと思います。
マルコの場合は「若い人」、ヨハネの場合は「天使」、ルカは「人」、マタイ福音書では
「主の天使」つまり「神」ご自身ということ。どうして違うのでしょう。
福音書は、ただ人が見たことを伝えているのではないと言うこと、弟子たちが見たことを
書いているのではないのです。「見たこと」そこから「考えるようになったこと」
「信じたこと」を含めて、こう言う話を伝えようとしているのです。
イエスを信じるということは、自分が体験したことに基づいて行われているのですから
当然、人によって違います。
では共通点…。「イエスが復活して生きて現れた」これを伝えている話しの共通点は、
色々ありますが七つだけふれてみたいと思います。
第1、墓は空っぽです。第2は、弟子たちは恐れおののき怯えています~起ったことを
理解していない。第3は、イエスが、ご自分の方から現れるが弟子たちは分からない。
5番目、イエスが現れたり消えたりします。6番目、現れるイエスと生前のイエスの姿が
違っていても同じ人(同一人物)である。このことが良く分かるのはヨハネ福音書20章に
あるトマスの話しです。トマスはイエスの手の釘のあとに手を入れないと信じないと
言ったが、一週間後イエスが現れた時、トマスは触っていないですね。これは「十字架に
掛けられた人」と、「今、生きて現れた人」が、同じ人であるということなのです。
七つ目の共通点は、弟子たちはイエスから使命を与えられる(派遣される)。
~わたしが父から遣わされたように、わたしは、あなたたちを遣わします~と、イエスは
言われます。ここで、あることについて考えてみたいと思います。
弟子たちは遣わされました、では彼等は人々に何を伝えたのか…。それは「福音」、良い
知らせ…嬉しい知らせ、「十字架につけられ葬られたイエスは復活して生きておられる」、
これが教会が誕生した時から中心に伝えられたことです。十字架に架けられ葬られた
イエスは今も生きておられます。色々な話が付け加えられましたが中心は何ですか…。
イエスの弟子として生きるために一番大切なことは、神を愛し、人を自分の隣人として
愛しなさい…と、言うことだと思います。そうすれば、もっと多くの人々にとって嬉しい
知らせになるでしょう。
イエスは復活された…でもイエスの復活は偶然でも、たまたまでもなかった。
先ほどのパウロの手紙にもあったように聖書に書かれている通り、このことは弟子たちに
とって非常に大事な意味を持っていた。ルカ福音書に書かれている「エマオへの旅人」の
中でイエスは言われていますね~メシアは栄光に入るはずだったのではないでしょうか~
(ルカ24章26節)「聖書に書いてある通り」この言葉の重みを、私たちは十分に把握している
でしょうか。あきらかに福音書、使徒言行録、パウロ、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの手紙を
読むと分かるように「イエスが復活されて生きている」と言う、信仰宣言に至るにあたって
聖書と言うものが決定的な役割を果たしたと言っても過言ではないでしょう。
「聖書に書いてある通り」それは、聖書に書かれているすべてのことばを、文字通りイエス
が実現したということを意味しているのではありません。確かに実現したということが
新約聖書のなかに何度もでてくる、また旧約聖書は数え切れないほど、新約聖書の中で
直接に、間接的に引用されています。だからと言って旧約聖書のことばを見て、その
ことばが新約聖書のどの部分にでているのかを調べてみるなど、あまり意味がありません。
特に、信仰に生きるにあたっては役に立たないと思います。では「聖書に書いてある通り」
ということを、どのように理解すればいいのか。それは教会のステンドグラスのようなものです。
外から見ると暗くてほとんど分かりませんが、聖堂の中に入って光が差していると初めて
絵が描かれていることが分かるように、イエスを光として旧約聖書を読みなおすと、
だんだんと…この状態はイエスの置かれた状態と同じであるとか、この旧約のことばは
イエスの話の中で、こう言う形で発展していると言うことに気づくことがあります。
こう言ったことを踏まえて次のように理解すればいいのではないかと思います。
「神の救いの思い」…共同約の場合、いつも「神の救いの計画」「計画」と翻訳されて
いますが、「神の救いの思い」と言った方がいいでしょう…。神の思い、神のおっしゃること、
神のされること。神の思うこと、言うこと、すること…は、同じことです。
神の救いの思いを語っている旧約聖書は、時と共に色々な人を通して、神の救いの思いに
対する理解が深められてきました。神の救いの思いがイエスのうちに実現されることへ
導いて行くと言うことが「聖書に書いてある通り」と言うことの意味です。
イエスの一生の象徴である「復活」の意味の豊かさを察するために、どうしても聖書に
書いていることを知ることが必要です。しかし新約聖書の中にある旧約の引用が証拠なのでは
ありません。もしもそうであるならば、どうしてユダヤ教の人々は、今もイエスを救い主と
認めないのでしょうか。「イエスは復活して今も生きている」あまりにも出来すぎた話です、
では復活は弟子たちの作り話なのか。「たとえ死んでも再び生きる」これはマルタへの
イエスのことばでしたね。それを信じるか?信じることは、それほど簡単なことではないと
思います。だから復活の話は作り話ではないかと言われる方もいます。使徒言行録を見ても
パウロの手紙を見ても、人々の反応はどうだったでしょうか信じるということは簡単な
ことではありません。でも良く考えてみると、こういう話を作ること自体、簡単なことでは
ないと思います。聖書を読むと分かるように弟子たちは皆、私たちと同じ普通の人で
特別に知能の高い人たちではなかったし、身の安全のために弟子たちは逃げていた。
何が起こったか、まったく分からない、不安でたまらない、失望に陥っている。恐れ慄き
怯えていたのに、弟子たちが、どうしてこのような素晴らしい話、今までなかった話を
考えることができたのか。どうしてこのように早くまとめることができたのか。
時間的にも精神的にも、この優れたことを考え話をまとめるために必要だった余裕が
あきらかになかったのに、どうして「イエスの復活」と言う話をまとめることができたのか。
これこそ大きな解くことのできない謎ではないでしょうか。それだけではなく、この作り話
を信じてもらうことが、弟子たちの狙い、目的であったとすれば、どうしてもっと上手に
話を作ることができなかったのか。もっと信じやすいように話を作らなかったのでしょうか。
説得力に欠けている話の連続で、イエスの復活の瞬間を弟子たちは見ていないから説明する
ことができません。作り話だったら説明しようと話しを作っても良かったのに、それを
しなかった。そのことこそ興味深いことだと思います。どうして弟子たちが正直に自分たちの
醜いこと、恥ずかしいことを人々に伝えて認めたのでしょうか。復活したイエスは、まず婦人
たちに現れた。当時の裁判で女性たちは証言することを許されていませんでした。女性は
軽視され、その言うことなど信頼されませんでした。イエスが復活して生きていると、こんな
大切なことを信じて欲しいと思うならば、作り話であるならば、こう言うことを書くでしょうか。
復活を信じさせるための作り話であるならば、こんな話は書かれません存在するはずがありません。
作り話であると言うことは、ありえないということです。作り話であるとは考えられません。
何の根拠もありません。つまり弟子たちの言うことを信じるか信じないか、その選択しかありません。
弟子たちの証言は証拠ではありません、信じることへと続く「しるし」です。ヨハネ福音書の中で
トマスはその「しるし」を見た時、はじめてイエスへの信仰を宣言します。わたしの主、わたしの
神よ…と、イエスが復活させられ生きておられることを信仰のうちに受け入れようとすれば、
すべての人の人生は、豊かな意味を持つようになります。人生は方向づけられます。
いくら反対にあっても、いくら迫害にあっても弟子たちが溢れる喜びに満たされ続けた理由が
そこにあります。イエスが復活して生きておられる…このことから弟子たちは最後まで、命を
かけてまでイエスについて行くことができました…と話し第1部を終えた。
休憩後の第2部では、マグダラのマリアとイエスとの出会い(ヨハネ20章11~18節)、
エマオ村へと行く二人の弟子とイエスの出会い(ルカ24章13~35節)を取り上げ
「生きておられるイエス」は「しるし」を通して近づいて来られることに気づくことの大切さ。
「生きておられるイエス(福音)」を伝え、証しする使命に目覚め、生きることについて話した。
皆さん聖書に対してこう言うことを経験したことがありますか、二千年以上も前に書かれた
ことが、どうしてこんなに結び付くのか、やはりそれは「神のことば」自分の為の「神のことば」
であると言うこと。「神のことば」に驚けば驚くほど、私たちはイエスに密接に結ばれることに
なります。そしてイエスは共におられると言う確信を持つことに繋がると思います。
もう一つの道は、パンとぶどう酒は典礼を通して「イエスのいのち」になる。私たちの信仰の糧に
なります。自分の力だけでは無理ですイエスの力を借りていなければ、イエスに出会って、
後について行く、そして福音を証しすると言うことはなかなかできません。しかしイエスに養われ、
「神のことば」のうちに生きて行こうとすれば可能になると思います。
簡単でしたが、こうしてエマオ村へ行く二人の弟子たちの話を振り返りました。そして私たちの
信仰生活と結び付けるように心がげて話してみました。是非みなさんも、もう一度「聖書のことば」
を読んで、自分の生活(生き方)と結び付けるように心がけて見てください。そこから必ず静かな
確信を持つことができるようになると思います。今日は皆さん、折角「イエスのことば」に触れる
ことができました。弟子たちの経験、体験に触れることができました。それぞれの長い信仰への
旅において、再出発の時だと考えて頂ければありがたいなと思います。
御父によって復活させられたイエスは、今も生きておられます。生きておられるイエスは「しるし」
を通してしか私たちに近づいて来られません。ですから「しるし」に気づくことができるように、
遮られている私たちの目を開けて頂くように節に祈り続けることが必要です。
さらに、生きておられるイエスは私たちに使命を与えられました。福音を伝え証しすることです。
その為の努力を怠らないように、その使命を絶えず自覚しましょう。この私も今、イエスから遣わ
されていると自覚しましょう。その使命を果たすことができるように、ともにおられるイエスに
力と、勇気を願い求めましょう。このように生きることを心がければ、イエスによって自分の
名前で呼ばれていることを経験し、確実にイエスに出会い、証しすることができるようになると
思います。恐れることなくイエスとともに歩もうとすれば、私たちの心も燃えるでしょうし、
私たちの心にさした光は、人の御前でも輝きでるでしょう。復活節は主日毎に、私たちにそのことを
教えているのではないでしょうか…と結び、講演を終えた。
3月末で引退し(小教区の司牧を解かれ)、パリミッション会の北九州支部で新たに
イエス・キリストの司祭として、宣教師としての道を歩み始めたベリオン神父さまの
相変わらずのパワフルな、お話しに集まった110名程の皆さんが聞き入る熱のこもった聖書講座となりました。