「ことばの力」~人の言葉と神のみことば~
山浦玄嗣氏講演会


10月21日(日)、「世界宣教の日」に小倉教会において「ことばの力」
~人の言葉と神のみことば~をテーマに「ケセン語訳新約聖書・四福音書」の
著者、山浦玄嗣(はるつぐ)氏を招き講演会が行われた。


岩手県にある大船渡教会に所属する山浦氏は前日、福岡での講演のあと
主日のミサを、どちらかの教会で与りたいと朝早く小倉教会に到着・・・
「子どもと共に捧げるミサ」のなかでも主任司祭、山元 眞 神父の
求めに応じ、当日の福音を山浦流の翻訳で解説した。また、ミサ後には
午前の部の講演として「ケセン語訳新約聖書・四福音書」の翻訳に至るまでの
話しや世間語で翻訳してほしいと言われ著作した
「ガリラヤのイエシュー」について話した。


午後の部では、はじめに「故郷のイエス」「走れイエス」「人の子イエス」の3部作を
紹介し、この3冊の本は津波で流されて、もうないのですが私が「ケセン語訳聖書」を
翻訳した時に様々な問題にぶつかった・・その問題をいかにして自分の中で
解決したか・・私はただの、一町医者ですしギリシャ語だって60歳になって
一生懸命学んだのですから、それほど詳しいわけではない、聖書学なんて素人同様ですから
まあ、ずいぶんと無鉄砲なことをしてきたと思います・・・間違っているかもしれませんが
この3冊は、私なりに解決してきたことを詳しく書いたものです・・午後の部は、
この中から私たちに馴染みの深い問題(疑問)を取り上げ、限られた時間では
ありますが皆さんと一緒に考えてみたいと思いますと話した。


午前中の話を少し振り返りますが・・「キリスト教は愛の宗教」であると良く言われます・・
しかし日本語の「愛」と言うのは自己本位的な感情ですから、そんな感情のようなものが
一番大切なのではないと思います。ところが何を間違えたか?明治の中期に禁教令が
とかれたときに「αγαπαω」を「愛」と訳してしまった・・これが全ての誤りの基だと思います
「愛」には上下関係がありますね・・夫は妻を愛すると言いますが、妻は夫を慕うと
言うんですね・・・「神さまを愛する」なんて、これほど不調法な言葉はありません。
そう言った日本語の基本的なところを押さえないで翻訳したものだから
途方もない訳がいっぱい出てきてしまった・・。「汝の敵を愛せよ」・・なんてね~
できるわけがないじゃないですか・・・だから誰もキリスト教の信者にならない。
αγαπαω」を大切にする(だいじにする)と訳せば、それは感情とは関係ありません
相手をだいじにすると言うことは、感情はどうであれ・・相手本位の行動をすると
いうことですから・・・。人と人との間に生じる本当の幸せとは互いに「αγαπαω
(だいじにすること)から始まるのだとイエスさまは言っているのではないでしょうか?
「汝の敵を愛せ」のすぐあとに出てくる文言は「~天の父が完全であるようにあなたがたも
完全なものになりなさい」と書かれている・・・神のように完全なものになれと要求されている
これはもう留めの一撃のようなものですね・・・とってもできません~神さまが完全なのは
よくわかりますが、神のように完全になれというのは無茶苦茶な要求ですよ・・。
むしろ自分は神さまのように完全になったと思う人がいたとしたら、とんでもない傲慢ですよ。
ですから私はこれも調べてみました・・・原語は「τέλειος」その意味は
だんだん成長する・・大人になると言う意味なんです・・・「できあがる」って言う意味なんです。
ですから私は「天の父は~まことにできたお方だ・・それと同じように~できたものになれ・・」
大人になれと訳しました・・。「愛」とか「完全」というふうに言われると高尚な文言には見えるが
私たちの心の中には、すこんと入ってはこないばかりか、完全になれない自分の
罪の意識ばかりが出てくるわけですよ・・そういう、うつ病みたいなことは止めましょうよ・・
私はもっとイエスさまってお方は、ほがらかで愉快なお方なんだと思います・・。


また、山上の説教(真福八端)の~心の貧しいものは幸い~と言う聖句について
「頼りなく望みなく心細い人は幸せだ、神さまの懐に抱かれるのはその人たちだ」と訳した
ことにふれ、「心の貧しい人」と言うのは日本語では軽蔑されるような(ろくでなしの)と言う
イメージであり・・・これはおかしいと思います。原語で心の貧しいと言う箇所は
Πτωχοί τω πνεύματι」これは「πνεύμα」が弱々しい
πνεύμα」は風(息)ですから、つまり・・息(生きる力)が弱々しい人と言う意味であり
文法的には「心の貧しい」と訳しても間違いではないでしょうが日本語の表現としては
ずいぶんとおかしなイメージになってしまいますね・・。「幸い」と言う言葉について
日本人は「幸い」という言葉を使うときは自己本位的な「もっけの幸い」という意味で
使うんですね・・・。「幸せ」というのは人と人、神さまと人との交わりのなかで得られる
喜びを「幸せ」と言います・・。人と人の関係の中で、いいとこも悪いことも受け入れて
そして、だいじにされ・・だいじにする・・その関係の中でできてくる本当に幸せな喜び
神さまと人との間にも、人と人との間にも、そう言った喜びの交わりがあるんだと
聖書は言っているんだと思います・・。「頼りなく望みなく心細い人は幸せだ」
なぜ「幸せ」なのか?私は今度の津波で、このことが本当に良くわかったんです~
原子爆弾が落とされた後のような瓦礫の山もだいぶ片付きましたが、私たちにとっては
まだまだ現在進行形なんです・・。あの何とも言えない惨害のなかで私たちは
茫然として立ちすくんでいた・・あの時に私たちは本当に「頼りなく望みなく心細い人」で
あったと思います~あの時、私たちは何が起こっていたのか分からなかったのですが
テレビや、なにかで日本中の人が・・世界中の人が見ていたんですね・・・。
東北の人間が、あれほど日本や世界中の人から親切に・・だいじにされたことはなかったと
思いますね・・。平常の時に・・どぶさらいしているのを見たって何とも思いませんが~
日本や、世界中のいたるところから人々が来て一生懸命になって瓦礫を取り除き・・
つぶれた遺体を掘り起こし、どろさらいして・・助けてくれた。あの姿を見た時に私たちは
誰もが、手を合わせて拝んで、泣きました・・。自分の辛さで泣くのではなく、人に助けられたことの・・
人に親切にされたことの嬉しさで泣きました・・。「頼りなく望みなく心細い人は幸せだ」と
言うことが、こう言う事なんだと・・初めてわかったような気がします。自分たちの為に
こんなことまで、やってくださっていると思った時に・・本当に嬉しい、ありがたい・・と手を合わせる。
この気持ちと言うのは「頼りなく望みなく心細い人」だからこそ、極めて鋭敏に感じたのでしょう。
人と人との交わりの中で、人の情けと言うものが、どれほど有りがたいものなのかと分かる
・・そう言う人は幸せなんだとイエスさまは言っているのでしょう・・。そう言う意味で私たちは
「幸い」ではないですけど「幸せ」だったと思います・・。「天の国はその人たちのものだ」・・
この言葉にも私は引っかかるんですね、「Βασιλεία του ουρανου」「天の国」は
Βασιλεία」と言う言葉を「国」と訳しているのですが「国」と言う意味はあるのですが、
これは「Βασίλειο」と言う言葉の名詞形で「支配する」「治める」「取り仕切る」と言った
言葉ですから、私はこれを「神さまのお取り仕切り」と訳しました。本来の意味は「国」じゃないのです・・
それは、どこにあると言うものではなく人と人との間にあるものなのです・・。人間の不幸は
人が人を支配することから始まると旧約聖書にも書かれていますね・・。「神さまのお取り仕切り」に
身を委ねようと言っているのです・・。何も死んだあとに行く国ではないのです・・そう言う問題では
ないのです・・。現に私たちは生きて今ここにいる、そして幸せになりたいと思っている・・
神さまも私たちが幸せに・・喜びに・・光り輝いてもらいたいと思っている~そのためには
こうすればいいんだよって言う「神さまのお取り仕切り」がある~これに信頼して身も心も
委ねようではないか・・これが「Βασιλεία του ουρανου」の心だと思います。
だから「頼りなく望みなく心細い人は幸せだ、神さまの懐に抱かれるのはその人たちだ」と・・・。
聖職者でもないのに、こう言う不届きなことを言うのは恐れ多いのですがカトリックと
言うのは大変ありがたいもので間違っていれば告解場に行けばいいのですから気が楽なの
ではありすが・・・。~私はこう思いますと・・「儀に飢え渇く人は幸い」などの解説もし~
実はあの山上の説教(真福八端)は貧乏人と貧乏人に親切にしてくれる人の話なんです・・
こう言うことがわかってくるような翻訳にしたいと、私は努力してきましたと話した。


教会の中で使われる教会用語と言うのは難しいんですよ・・解ったようで解らないから
人にも正しく伝えられない・・。この数年間、全国で献堂50周年記念祭と言うのが
あっちこっちで行われている・・50~60年前に日本全国でカトリックもプロテスタントも
沢山教会ができたわけですよ・・だけど、そのあとピッタリと増えない・・どうしてなんでしょう
~日曜日に教会に来る人を見ると白髪の人ばっかり・・たまに黒い人がいると染めているんですよ・・
子どもの数も少ない・・今日は「子どもと共に捧げるミサ」だったそうですけれど・・
一握りしかいないじゃないですか、これはどこでもそうなんですよ・・・これは何故なのか?
私は深刻に思うんですよ・・・それはキリスト教会が自分たちの信仰を次の世代に
きちんと伝えることに失敗したからなんですよ・・何故、失敗したのか・・
それは聖書が悪いから・・なんだか訳のわからないことばかりを書いているから・・
結局わからないままにいるから子どもたちに伝えることができない・・。
教会が現代社会に生きる普通の人たち皆に解るような、ごく当たり前の言葉でイエスさまの
ことばを解りやすく伝えることに失敗したからだと私は思っています・・。
私たちはこの失敗から立ち上がらなくてはならない、そのためにはどうするか?
少しでもおかしい・・解らないと思うようなことがあったら見逃さないこと・・・説明しなければ
ならないような訳をしないように声をあげてもいいのではないか?
問題が明らかになってくる所に答えも出てくるはずなんです・・。
例えば「永遠のいのち」と言うことば・・・始めがあって終わりがある「いのち」と
始めも終わりもない「永遠」の組み合わせ・・こう言うのを形容矛盾と言うんです・・
つまり組み合わせてはいけない形容詞と名詞なんです。「Ζωή αιώνιος」は
「いつでも明るくピチピチ元気に生きること」と置き換えると聖書のことばが活き活きとしてくるんです・・。
「δόξα」これを「栄光」と訳している「栄光」というのは甲子園でしか使わないような言葉じゃないですよ・・・。
「栄光」と言うのは「認められ、受け入れられた喜びで太陽の100万倍も光輝くような気持」を言うんです・・。
~わたしのことばを守って、お前たちが本当に立派な素晴らしい人生をおくるならば、それは神に
栄光を帰することになる~と書いていますよね、難しいですね何のことか解らないですよね。
これは・・神さまがお前たちのそんな姿を見て嬉しくて嬉しくて喜びで太陽が100万倍も輝く・・
神さまはそう言う、お方なんだと言っている・・。これが「福音」よきたより・・「Ευαγγέλιο
なんですよ・・その「よきたより」を運んできたのがイエスさまなんですよ、そしてこれが本当に
神さまからのものだと言う事を私たちに保証した出来事が十字架と復活・・「復活」と言うのも
難しいんですが「ανάσταση」復活と言うのは寝ているものが立ちあがると言う意味
なのです・・イエスさまは「わたしは復活である・・・」と言うでしょう、あれも意味の通じない
言葉なんです「復活」を名詞として訳してはいけないのです・・「わたしは人を、また立ちあがらせる」
~もう、くたばっているような奴を引っ張り上げてくださる~こう言う意味が含まれているのでは
ないでしょうか?イエスさまと言うのは・・そういう力強い友達なんだ・・それによって私たちは
イエスさまと手を組み・・肩を組んで本当の幸せに向かって、ばく進して行く・・これが
教会と言うものではないでしょうか・・・?そう言う教会を本当に解りやすく説明して・・
本当にその喜びの中でつくり上げて行く・・この21世紀に生きる私たちが白髪を染めてでも
やって行かなければいけないことではないでしょうか・・と話し講演を終了した。


帰りの飛行機の時間がなく・・タクシーが迎えに来るギリギリの時間まで
お話ししてくださった山浦さんの講演会は同じ北九州市小倉で開催されていた
B-1グランプリよりも熱く、活き活きとした「ことばの力」が伝わってきたようです・・。