馬渡島教会 ![]() 【歴代主任司祭と在任期間】
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〒 847-0405 佐賀県唐津市鎮西町馬渡島1767 TEL:0955-82-9044 FAX:0955-82-9044 保護の聖人:聖ベルナルド 【ミサ時間】 主日ミサ(土曜日)19:00 (日曜日)08:00 平日ミサ なし 【教会周辺道路】 大きな地図で見る 【信徒数】 (2007.12.31時点) 〈男〉 人 〈女〉 人 〈総数〉 330人 |
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【小教区の特徴】 |
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【小教区の歴史】 馬渡島の教会の歴史については、ブルトン神父 (明治42年から大正9年まで、さらに昭和2年から23年 まで同島主任) の記録、および古老の伝えるところによってかなり明らかである。 馬渡島の最初の信者は、長崎県西彼杵郡外海地方から移住してきた人たちで、文久元年(1860年)に さかのぼるとされる。7年後の慶応三年頃、亀蔵、倉吉、定四郎、元助ら馬渡の四人の信者が信仰のため に唐津の牢に入れられたことがあるという。亀蔵、倉吉は口先で信仰を捨てたが、あとの二人は頑強に 教えを守って拷問を受けた。やがて迫害が終わって釈放された。 明治12年までは外人宣教師は自由に国内を旅行できなかったので(長崎県下外国人遊歩規定)、馬渡を 訪れる司祭はいず、信者たちがひそかに長崎に出かけていった。この年、外海の黒崎、黒鳥、平戸、馬渡 を含む地区はペリユー神父に任され、この時から同神父か、㌣フでなければ他の若い宣教師が馬渡を 巡回し始めた。島民の洗礼第一号は13年8月プトー神父が授けたもので、また同年十月七日にはボン 神父も洗礼を授けている。翌年ペリユー神父が聖堂建築に着手、その年の11月5日完成して、プチジャン 司教の祝別を受けた。同司教はまた、ここではじめて信者たちに堅信を授けた。同月28日にはフエリエ 神父も姿を見せた。翌年六月ペリユー神父は長崎浦上に移り、後任のラゲ神父は黒崎を除く地区(黒鳥、 平戸、馬渡) の責任者となった。この時代ラゲ神父かマトラ神父が馬渡を巡回、そのラゲ神父も21年には 福岡に去った。 20年以後、深堀忠治神父が6月と11月に、岩永信平神父が21年7月にそれぞれ馬渡を巡回した。 30年、同地区は三つに分かれ、マルマン神父が黒鳥を、片岡謙輔神父が佐世保を受持ち、そして馬渡は 平戸、生月とともにマトラ神父の受持ちとなった。(大正10年6月死去まで)。このマトラ神父時代も上記の 岩永、片岡神父のほか、高木源太郎、岩永正象、有安秀之進、浜端兵助神父らが馬渡を巡回している。 30年9月から水浦良蔵神父がはじめて馬渡に定住することになり、松島もその司牧下に入った。 松島には信者六家族がいた。二年後の四月、水浦神父に代わって中村五作神父(36年まで)青木義雄 神父 (36年のみ)そしてヨゼフ・ブルトン神父は42年7月から大正9年(1920年)9月まで、さらに水浦神父 がブルトン神父の後に大正13年12月まで同島に留まった。14年5月水浦神父死去の後、馬渡は平戸から 独立して松島と呼子を含む新地区となり、その責任者に有安神父(13年から15年まで)、そのあと山口 宅助神父が唐津を兼ねて来島したことがあるが、福岡教区が長崎教区から独立する直前の大正15年、 山口神父は長崎県に移り、ブルトン神父が再び馬渡の主任となった。 上述のように、ペリユー神父時代の明治14年馬渡に初の聖堂が建設され、これがマトラ神父の手で拡張 され、同時に司祭館も建設された。また同神父によって長瀬に、牧山リキら四人で授産場がつくられた。 現在の聖堂はブルトン神父が昭和4年、平戸紐差の聖堂を解体して建て直したものである。 塔もこの際に新しく取り付けた。チリー司教はこの年の5月21日まず呼子教会(旧馬渡の聖堂を移した もの)を、翌日22日馬渡の聖堂を、さらにその翌日23日に松島の聖堂を祝別した。 |
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