「創造主への賛美」北九州地区聖書週間特別講座

11月19日 年間第33主日(貧しい人たちのための世界祈願日)、
この日から聖書週間の始まり、北九州地区でも聖書週間の特別講座が小倉教会で午後から行われた。
今年の聖書週間のテーマは、フランシスコ教皇の回勅「ラウダート・シ」を受けて
「創造主への賛美(詩編104)」、今回の特別講座も、このテーマにあわせベリオン神父
(パリ外国宣教会)が行った。

ベリオン師は、はじめに聖書週間のテーマに入る前にこの一年間、北九州地区の聖書講座の
年間テーマから「典礼と共に」と言うキーワードを取上げ、ミサ典礼の「叙唱」、年間主日(四)
‐創造のみわざ‐の祈りを紹介し、このように典礼を通して私たちは「創造主」を賛美しています。
「創造主」の話となると、もちろん「みことば」に耳を傾ける必要があります。
その前に今年の聖書週間のリーフレットに書かれた「創造神学と現在の科学」山内倫昭神父
(サレジオ修道会)の「私たちの家:地球の誕生と成長」にふれたいと思います。
ここに書かれていることは今、科学的に言えることですが、ところで「ビッグバン」って、
どこから来たんでしょうか?
この天地創造について聖書は物語を通してこたえようとしています。
創世記(天地の創造)1章~2章の1節から4節を中心に少しお話させていただきますが、
象徴的な物語ですからシンボルを通して聖書はそのことを語っています。科学の研究に基づいた
見方ではなく、信仰に基づいた見方で書かれているということです。
聖書は何をいっているかというと、全てが現れたのは「神による創造」によってであると
言うことです。
「神による創造」ということばを、どのように理解するか。「初めに」と書かれています。
「初めに」と聞くと「時が始まった」と考えますが、ヘブライ語でもギリシャ語でも
同じニュアンスを持っていますが、それだけではなく「初めに」には「意味へ導く」
「方向づける」といった意味が含まれています。それによって希望への道が開いたと考えて
いいと思います。この一番目の物語は「詩」(うた)です。この「詩」のリズムを刻む
「ことば」が繰り返されています。「神は言われた。」「神は見て…良しとされた。」
「夕べがあり、朝があった。」それぞれ、9回、6回、6回ですね、つまり「9」というのは
全てではないと言うこと。「6」というのは完成していない未完成ということですね。
全てではない未完成なのに「神は安息された。」休まれた…。これは何を意味しているのでしょうか、
その七日目は私たち人間、人類が働く日だということです。未完成のまま神は休まれた。
これは人間が神の創造に協力することによって完成に向かって進むためです。
そしてそれは「神の指示通りに」ということです。ことばとして3回でています「支配せよ」と。
昔ラテン語のミサで Dominus vobiscum 主は皆さんと共にと言っていましたが、このラテン語の
Dominus 「主」と訳されたことば、元々は「支配するもの」と言った意味があり、ここでは
「神がされたように行動しなさい」と言う意味になります。日本語の「支配」と言う言葉、
「支える」、「配る」、まさにそれは神が人に求めていることなんです。
「支える」とはいのちが維持されるように保たれるように、「配る」とは皆、分け与え分かち
合うようにと私たち人類に求めているわけなんですね。
「支配する」と言うことは、「神によって創造されたものが全て人に委ねられている、任されている、
と言うこと。これに対して人は責任を持って行動しなければならないことを意味しています。
七日目に神は休まれた…それは人類に、人間に、あとのことを任せる言うこと、
そして完成に向かって進むためです。
2番目の話の中にも同じことが教えられています。ただ形は違います。
2番目の話は「詩」ではありません、物語です。まず神は人間をつくる。
人間は神の傑作だから、まず神は人間を作った。そのあと神は人を見て、人がモノだとか生き物に
名前を付けることを楽しみに見ている。
名を付けると言うことは、名付けたものに対して責任を持たなければいけないと言うことです。
ここにいらっしゃる皆さんだって同じでしょう、お子さんがいるとしたら名前を付けられたでしょう。
それはその子に対して責任を持って育てるように、その子が成長できるように尽くしますね。
名を付けると言うことには約束があると言うことですね。
イスラエルの民の中で、そういう習慣があったから神もそうさせたと言うふうに考えて、
物語の中で教えたと言うことでしょう。
それでは3番目~イスラエルの民とイエスと共に祈りながら~に移りたいと思います。
あまり意識されてないと思いますが、イエスはユダヤ人であったということ。
イエスが祈るときに「詩編」を通して御父を賛美していたということです。
ではこの「詩編」が聖書の中でどのような位置にあるかということですが、
ヘブライ語では「詩編」と言う言葉は使われていません。私たちが「詩編」と言う言葉は
「賛美」となっています。
その「詩」と言うのが、いつ頃歴史の中に現れたのか、学者によっても違いますが、
ユダヤ人は紀元前587年にバビロニア帝国に滅ぼされてしまいました。
その時点でイスラエルの民というか、イスラエルの信仰も消えてしまっても
おかしくなかったが、バビロンに連行されて捕虜になった人々の中に熱心な人たちが居て
預言者の影響をうけ「私たちは神から離れた、神のことをないがしろにした、
イスラエルの神に対して罪を犯した。」だからこうなったと…
これは皆さん人類の歴史の中で例のないことなんですよ。
その時、祭司たちは神殿もない何もないから、自ら聖書を書き始めた。
聖書の中で言われている「祭司伝承」です。その時祭司たちは書いていた聖書のことばを使い、
神のことばを黙想しようとして詩編を歌っていました。
全部じゃないでしょうけど150編の中の100近くは、その頃に書かれたものであると
研究の中で考えられています。
私たちも今、同じことをしている、私たちの感謝の祭儀の「ことばの典礼」、
これはカトリック教会が考えたことではないですよ、ユダヤ人が考えたことです。
まず神に対して祈り(集会祈願)、聖書の言葉が朗読されて、それに対して神を賛美する
「詩編」が歌われますね…福音書の朗読の前に、私たちは何を歌っていますか?
アレルヤ(神を賛美せよ)でしょう。この私たちの感謝の祭儀の第一部は全て、
昔ユダヤ人のシナゴークで行われていたことなんですよ。
ここで聖書週間のテーマにある詩編104を読む前に「詩編」について一つだけ確認して
おきたいことがあります。「詩編」というのは教えではなく「祈り」です。
その祈りは、神との出会い、神との深い交わりを目指しているものです。
いつも思うのですが第一朗読の後に詩編を歌いますね、すぐに歌うのではなく
やはり教会が求めているように祈る心を整えるために沈黙が欲しい。
そして歌うときに「ことば」の意味を意識して歌うことが大事だと思います。
音楽を大切にするか、ことばを大切にするか、「詩編」の場合は「ことば」だと思います。
「賛美」は、神の偉大さをたたえ、神に栄光を帰する性格を持っています。
神の賜物よりも、神自身に対して発せられます。
「賛美」は、神を中心にし、深く神に没入させるものであり、
神は、神であるが故にたたえるものです。
私たちは祈るときに気を付けないと、いつもお願いばかりになってしまいますが、
「神は、神であるが故にたたえる」自分の声を通して、自分のすべての思いを、
神にささげると言う意味です。
ユダヤ人にとっては勿論そうだったでしょうが、ナザレのイエスを救い主…キリストを信じる
私たちにとっては尚更、「詩編」は大きな特色をもっている。
それは「メシア」救い主との関係です。救い主に関する預言は希望の川のように流れています。
新約聖書の中で「詩編」は、100回以上引用されています。
イエスは、「詩編」を通してご自分の父に、ご自分の民と共に祈られました。
「詩編」を読むときに時代が違いますから、違和感を感じることがあるかと思いますが、
イエスは、どのような心をもって唱えていたのか、イエスの心の中で、どのように響いていたのか、
そういうことを意識しながら「詩編」を祈ったり、歌ったりすると、
深い意味が込められていることが分かると思います。
イエスが亡くなられて、復活されてから、イエスの弟子たちもユダヤ人だから自然に、主の日に、
当然、慣れていた形で祈るようにした。「詩編」を大切にしていたから、教会が誕生してから
一番古い、教会の中で表れている「詩」というのは、西暦90年代ではないかと言われています。
つまりイエスの弟子たちも「詩編」を通して神を賛美することが当たり前で
大切にされてきたと言うことです。
最後に個人的にもですね、時代を超えて、様々な文脈的な困難を乗り越えて、この「賛美」を、
自分の心の歌にするように心がける必要があると思います。
自分の信仰生活を潤す「祈り」にすることは、とても望ましいことだと思います。
休憩後、この聖週間に「詩篇104」を黙想するように呼びかけられていますので
今から少し時間をかけて読むようにしましょう。先ほど言いましたように「詩」は教えではありません、
「祈り」ですから説明はしませんが、この「詩」には、ユダヤ人の宇宙観が背景にあります。
ゆっくり味わい何が心に響くか味わってみて下さい、と黙想の時間を取った。
後半、教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」から、いくつかのことについて
ふれながら確認したいと思います。
「ラウダート・シ」とは、アシジのフランシスコの太陽の讃歌によく出てくる
「ラウダート・シーミ・シニヨーレ」(たたえられよ我が主)から取られています。
ラウダート・シ(たたえられよ)としか出てないですけど、その次はミ・シニヨーレ(我が主)です。
この回勅の序文のなかで教皇フランシスコは、私たちの地球を、私たちみんなが共に暮らす家と
呼びます。その地球は人間が無責任に使用したり乱用したため様々な傷が生じてきた。
今、地球は叫び声をあげていると指摘しています。人間性の転換による解決を探すことが求められ
総合的なエコロジーが求められていると言いきっています。
みんなが共に暮らす家を保護するという切迫した課題は、人類家族全体を一つにして持続可能で、
全人的な(すべての面を含めた)発展を追及することに対して、みんなが関心を持つべきだと
ハッキリ言われています。
なぜなら創造主は決して、私たちをお見捨てにならない。決して神の愛の思いを放棄したり
私たちを造ったことを後悔したりなさらないからです、と言っています。
私の個人的な感想ですけど、これを書かれた教皇フランシスコの意識の中には、どこかに
あのノアの箱舟の話があったのだと思いますよ…洪水のあと、神は後悔します、もう二度としない
人間を滅ぼさないと…。
また教皇は、キリストを信じるものが力を振り起こすことを強く呼びかけます。私たちは、みんな
神の道具として被造界を世話するために、各々、自分の文化や経験、自発性や才能に応じた協力を
怠ってはならないと訴えています。
「とにかくキリスト者は被造界にあっての責任と大自然と創造主に対する義務とが、自分の信仰の
本質的な部分をなすと悟らなければなりません」この言葉から、イエスを信じる私たちはもう
環境問題とか、そういったものが、信じることとは関係ないとは言えませんよ。
何も突然、環境問題を教皇さまが言い出したわけではありません、前のベネディクト16世教皇も、
その前のヨハネ・パウロ2世教皇も、ずっと前から教会で言われてきていることです。
と話し、回勅「ラウダート・シ」から、いくつかの部分を取り上げ、キリスト者として
心がけなければならないことを話した。

終わりに確認しましょう、神の創造は終わっていません。七日目に神は休まれた。
これは人類、私たち一人一人が地球の為に働く日です、関心を持つこと、自分の生活のレベルで
できることを一人ひとりが確実に行うこと。それは他の人々と協力して行うこと、これが福音を伝える
ことにもなると思います。行動なしには、神への賛美にはならないということです。
と、話し特別講座を終了した。