「何に命を懸けていますか?」北九州地区聖書講座

6月17日(日)、午後2時から北九州地区信徒使徒職協議会(信仰育成部会)主催の
聖書講座が新田原教会で行われた。
今年の聖書講座は北九州地区の殉教者である、加賀山隼人殉教400年に向けて
「信仰の証」を年間テーマに行われている。
今回は2回目の講座、「何に命を懸けていますか?」をテーマとして、谷口尚志神父
(大楠教会主任司祭)が講演した。

谷口神父は殉教者と私たちの共通点とも言える「みことば」によって支えられる「信仰」、
福音を証して行くことをキーワードに「私たちは福音を聞き・信じ・実行する
~殉教は信仰生活を送ったことによる恵み~」殉教者の信仰は私たちに繋がる信仰、パウロの
コリントの教会への手紙(2コリント4:5、4:11)を取上げ、証し人は自分自身を述べ伝える
のではなく、主であるイエス・キリストを述べ伝える」と話し。
またイエスは信仰生活が、みことばを聞き神を信じることであり、行いの伴うものであることを
はっきりと示している(ヨハネ5:24)と話した。
殉教者たちが「聞いたことを信じ、信じたことを話し、話したことを実行した」彼らの信仰生活
には実行が伴っていたからこそ迫害の時代に殉教者となったのであり、実行の伴わない信仰生活は
無意味なものと理解していたのではないか…私たちの信仰生活に実行は伴っているでしょうか?
見つめなおす必要があるのではないか、マタイ5:13~5:16(地の塩、世の光)を指し実行する
という姿勢を通して宣教すること。「立派な行い」とは自分のためではなく、神に帰すこととなる
行いであり。殉教者の立派な行いとは命すら神に帰すと言う行いのことであり、その殉教者を
称える私たちは、神に帰す行いが求められていると話し休憩に入った。
後半は「主は私たちのために命を懸けた~何に命を懸けていますか?いのちをかけられますか?~」
信仰生活は必ず実行が伴うもの…何を実行するのか?私たちの信仰生活はイエスに聞くことから
始まっています、当然「イエスが何をしたか」に基づいていると言うこと。
イエスはご自分を捧げ尽くすと言う「あがない」の業を実行しました。
洗礼を受け不死の命に生かされている私たちも、イエスによる「あがない」の協力者として、
このことを実行して行く(ローマへの手紙3:23~3:25)と話し、命を懸けないとできないこと
としてイエスは命を懸けて福音をもたらし、殉教者もイエスに従って命を捨てて証した。
殉教者は聖母とともにイエスの最大の協力者ともいえます。マリアは、わたしは主のはしためです…
(ルカ1:38)、殉教者はいわばイエスの言葉を借り、父よ彼らをお赦しください…(ルカ23:34)と宣言した、と話し。わたしたちが命を懸けられるのは、神の贖いの業が今も教会を通して続けられて
いる(エフェソ3:10~3:11)。教会は何のためにあるのか、神がイエスを遣わし贖いの業による
救いのために命を懸けていることを世に発信するためであり、それは過去の出来事ではなく、今も
聖霊によって集められている教会は必然的に「何に命を懸けているか?」「何に命を懸けられるか?」
日々、問われている。ヤコブの手紙にある通り、みことばを行う人になりなさい…
(ヤコブ1:22~1:23)と言うことです。と話し、最後にイエスの言葉(マタイ28:19~28:20)、(マルコ16:20)、(ルカ24:47~24:48)、(ヨハネ20:22~20:23)などをヒントに、イエスは共にいてはたらかれ、共に宣べ伝えられる、聖霊を受けた共同体を通して赦しを宣言されます。わたしたちはこのことの証人。命を懸けるものを持つとか、命を懸けるものを見つけると言うことは紛れもなく、イエスとともに行うことではないでしょうか、殉教者たちから命を懸けるという姿を
わたしたちは学びました。では私たちは生きている間に何に命を懸けなければならないでしょうかと
問いかけて講座を終わらせていただきたいと思いますと話した。