ものがたり

「周辺部」から日本社会を見て、「福音」を告げる -フランス人カトリック司祭の50年- (前編)

Proclaim Good News from Periphery:

50 years journey of French Catholic Priest in Japan (Part I)

  

 「日本で出会った小さな人たち、排斥されている人たち、青年労働者や外国人労働者、ホームレス、薬物依存症者など、彼らの目を借りて日本の社会を見ることは神さまからの大きな恵みだったと思います。」そう語るのは、1974年に来日し、カトリックの司祭(神父)として生きてきたコース・マルセル神父(80歳)。今年(2022年)司祭叙階50周年を迎えた、宣教師マルセル神父の歩みと思いをインタビュー形式で2回に分けて紹介します。

熊本地震被災地の復興支援プロジェクト/西原村で田植えをするマルセル神父

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<フランスで蒔かれた宣教師魂>

マルセル神父さんのご出身はフランスですが、どのような環境でお育ちになったのでしょうか。

 

 私が産まれたのは、イギリスの南側、フランスのブルターニュ地方のPont-Avenという小さな村です。ブルターニュは、4世紀の初めアイルランドの宣教師がキリスト教をこの地方に持ってきました。7世紀に創立された今でも続いているベネディクト修道院があり、古くからのキリスト教の地です。

ゴーギャンの「イエローキリスト」

 この小さな村はとても有名なところになりました。というのは、19世紀の終わりにたくさんの画家が集まり、印象派という新しい画家のグループをつくりました。日本の浮世絵、歌麿、北斎などの影響が強かったようです。そのグループの一番の有名人はゴーギャンという画家でした。「イエローキリスト」、十字架に磔にされたイエス・キリストの有名な絵画です。十字架の下に民族服を着ている婦人たちを描いてありますが、その中に私のひい、ひい、おばあさんがいたようです。

  

  

なるほど、神父さんご自身は日本やアジアとのつながりを感じておられたのでしょうか。

 

フランス・ブルターニュ地方

 私の村は大西洋の近くです。隣の家に世界をあちこち回る船乗りのおじいさんが住んでいました。彼は20世紀の初めに日本に行ったこと、横浜、神戸などの話をよくしてくれました。子どもだった私は想像をして日本の夢を見て、絶対いつか大人になって、日本まで行くと決心したのを覚えています。

マルセル神父の子ども時代

 そして、クリスマスの話になりますが、家にクリスマスツリーとその下に馬小屋がありました。その夜に父は貧しい馬小屋の中でお産まれになった幼子イエスの前に私を連れて行き「今晩クリスマスプレゼントをもらえない子どもたちを忘れてはいけないよ。イエス様はね、あなただけのために産まれたのではない。中国の人々のためにも来られたんだよ。」と言いました。それから、家族揃って真夜中のミサのために光で輝いた教会に足を運んで、私はミサの中で中国人のために祈ったことは今でもよく覚えています。その時父は、私の心の中へアジアへの宣教師の召し出しの種を、蒔いたかもしれませんね。

 

 その結果であるかわかりませんが、アジアの人々に分かち合いたい気持ちがずっと頭と心の中に残ったようです。それを実現するために25歳で教師の仕事を辞めて、350年前からアジアに宣教をしていたパリミッション会(パリ外国宣教会)の大神学校に入学し、5年後(1972年)に神父になりました。その時にまた不思議なことが起こりました。神父になったばかりの私たちはどこのアジアの国に行くかは選べません。宣教会が決定します。不思議なことですが「あなたは日本に行きなさい」と言われて神様に感謝し、喜び踊りました。

 

 

<“Ad Vitam”、“Ad Extra”、“Ad Gentes”>

マルセル神父さんが入会したパリ外国宣教会(MEP:「パリミッション会」の名でも知られる)の教訓、“Ad Vitam”、“Ad Extra”、“Ad Gentes”について教えてください。

【リンク:パリ外国宣教会(Wikipedia)MEPのフランスのページ

  

 “Ad Vitam”、“Ad Extra”、“Ad Gentes”は、17世紀の創立当時から変わらない、パリ外国宣教会の教訓で、ラテン語で表されています。

 “Ad Vitam”は「自分の人生の終わりまで」の意味。”Ad Extra”は「外へ」の意味で、新しい国、人、言葉、文化に出会いに行くために自分の国、家族、文化から離れて出ていくことです。“Ad Gentes”は「人々のもとへ」の意味で、 特にイエス・キリストの福音のメッセージをまだ伝えていない場所、人々に伝えて行くことです。それが本当にチャレンジだと感じ、私はこの生き方に強いあこがれがありました。

マルセル神父の司祭叙階式

  

  

<北九州で出会った青年労働者>

日本に到着してから、どのような働きをされたのですか?

   

 日本に派遣されて、1974年秋に日本に着きました。その時、偶然にも東京で私を迎えてくださったのはJOC(カトリック青年労働者連盟)の協力者、パリミッションの仲間たちでした。最初から彼たちを通して、日本語の勉強をしながら青年労働者と出会うことが出来ました。

DARCの集いで話すマルセル神父

 私はたぶん昔から「周辺部」のことに関心がありました。とにかく日本に着いてすぐ、神様の摂理でしょうか…、私は色々な人との出会いを通して、私の宣教師としての道が開かれました。この小さな人たち、排斥されている人たち、JOCの青年労働者や、その後福岡で外国人労働者、ホームレス、ダルク(DARC)*の薬物依存症者など、彼らの目を借りて日本社会を見ることは神様からの大きな恵みだったと思います。

*ダルク(DARC)とは、ドラッグ(DRUG=薬物)のD、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病的依存)のA、リハビリテーション(RIHABILITATION=回復)のR、センター(CENTER=施設、建物)のCを組み合わせた造語で、覚せい剤、危険ドラッグ、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から解放されるためのプログラム(ミーティングを中心に組まれたもの)を行っている。

  

青年労働者との歩みをもう少し詳しくお聞かせください。

  

 周辺部へ出かけていく最初の体験はJOCの青年労働者と共に過ごすことでした。北九州市の郊外で彼らと出会うためにあばら家に近い和風の家を借りて「働く青年の家」と名付けて、私はそこで丸9年を過ごしたのです。家の周りに日本のサニタリー製品大手メーカーT社の下請け工場があり、そこで水道管にクローム加工をする若い女性従業員が働いていました。彼女たちは毎晩仕事が終わると、「働く青年の家」にやってきました。両目がクローム蒸気で真っ赤になっていました。痛んだ目を休めるために濡れたタオルを顔にかぶせ、畳の上に寝転びます。私はただ黙って、どぎまぎして、それを眺めているだけでした。というのも、私の任務はそこにいて、彼女たちを迎え入れることだけだったのです。

 

 今思えば、そうして黙って見ていることが大切だったのです。JOCは非常に重要なことを教えてくれました。人々の生活の場に眼を向け、彼らの生活のなかから具体的な問題を聴き取り、彼らと一緒に歩む。このことの大切さを教えてもらったおかげで私は神父として日本滞在をうまく始めることができたのです。

北九州「働く青年の家」時代の様子

〔前編終わり:後編では、福岡市内で今も続く外国人労働者、ホームレス、薬物依存者との関わり、そしてマルセル神父の出会った<神>、「福音」への思いを紹介します。〕(2022年7月22日頃公開予定)


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