第57回 世界広報の日 (5月14日/復活節第6主日)教皇メッセージ
第57回「世界広報の日」の教皇メッセージが発表されました。
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心をもって、「愛に根ざして真理を語る」(エフェソ4・15)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
昨年まで、よいコミュニケーションの条件として、「来て、見る」「聴く」という動詞について考えてきましたが、今回の第57回世界広報の日メッセージでは、「心をもって話す」ことに焦点を当てたいと思います。わたしたちを来て、見て、聴くことへと導くのは、まさに心であり、さらにまた、開かれた、歓待のコミュニケーションへと突き動かすのも心です。耳を傾ける――待つことと辛抱することが求められ、予断による自己主張も排除すべきものです――訓練を重ねれば、生き生きとした対話や共有が始められるようになります。それがまさに、心をもってのコミュニケーションなのです。澄んだ心で相手の話に耳を傾けることができれば、愛に根ざして真理を語れるようになります(エフェソ4・15参照)。面倒が生じようとも、真実を告げることを恐れてはなりません。ただし真実を告げる際、愛も心もないままにそうしていないかを気に掛けなければなりません。ベネディクト十六世が述べているように、「キリスト信者の計画は……『見ることのできる心』」1だからです。心は、その鼓動によって、わたしたちの存在の真理を明らかにするのですから、それに耳を傾けなければなりません。そうすることで、聞き手は波長を合わせることができ、自分の心で相手の鼓動を感じられるほどになります。そうなると出会いの奇跡が起きます。その奇跡によって、伝聞で人を裁き不和や分裂を招くのではなく、互いへの敬意をもって弱さを受け入れ、思いやりの心で互いを見るようになるのです。
イエスは、どの木もその実によって見分けられるのだと警告します(ルカ6・44参照)。「よい人はよいものを入れた心の倉からよいものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(45節)。ですから愛をもっての、真実に従ったコミュニケーションのためには、自分の心をきれいにしておかなければなりません。澄んだ心で聴き、話すことで初めて、見えている以上のものが見えるようになり、情報の分野でも、わたしたちが生きる複雑な世界の中で識別の助けにはならない雑音に煩わされずにいられるのです。心をもって語りなさいという呼びかけは、現代を根本から問いただすものです。この時代は、無関心だったり、すぐに憤慨したりで、時には真実を捏造して操作する偽情報を持ち出すことすらあるのです。
心をもってのコミュニケーション
心をもって伝達するということは、わたしたちの発するものを読んだり聞いたりしている人たちに、現代人の喜びや不安、希望や苦しみをわたしたちは共有しているのだと分かってもらうことです。そのように伝える人は、相手の幸福を望んでいます。そういう人は相手を思いやり、相手の自由を侵さず大事にするからです。そうした姿は、ゴルゴタでの悲劇の後、エマオへと向かう弟子たちと対話する謎の旅人に見ることができます。復活したイエスは心をもって彼らに語り、悲しみに沈む彼らの歩みに敬意をもって同行し、ご自分を示しつつも押しつけはせず、起きたことの深い意味を理解できるよう、愛をもって彼らの心を開くのです。確かに彼らは、主が道で自分たちと語らい、聖書を説明していたとき、自分たちの心は燃えていたと、喜びにあふれて叫ぶことができたのです(ルカ24・32参照)。
偏向と対立の色濃い時代――残念ながら、教会共同体も無縁ではありません――にあって、「心からの、手を広げた」コミュニケーションに取り組むことは、報道の担い手だけにかかわることではなく、わたしたち一人ひとりの責任です。わたしたちは皆、真理を求め、伝え、愛をもってそれを行うよう求められているのです。とくにわたしたちキリスト者は、舌を悪から守るよう、たえず求められています(詩編34・14参照)。聖書が教えるように、わたしたちは舌で主を賛美し、神にかたどって造られた人間を舌で呪うからです(ヤコブ3・9参照)。口から出ることばは、悪いことばであってはならず、むしろ、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つことば」(エフェソ4・29)であるべきです。
感じよく話をすれば、硬い心がほぐれることもあります。文学作品にもその証拠があります。『いいなづけ』(訳注:アレッサンドロ・マンゾーニの長編小説。ダンテの『神曲』と並ぶイタリアの国民文学)の第二十一章の印象的なエピソードが思い浮かぶのですが、それはルチーアがインノミナート(訳注:「名もない」という意味)に心を込めて語りかけていると、その人が、健全な内的危機によって、心の武装が解除されて、悩まされながら、愛の優しい力に降伏するまでとなる場面です。わたしたちはそれを、社会生活の中で経験しています。優しさが、単なるマナーの問題ではなく、不幸にも心を蝕み人間関係を狂わせてしまうような、むごい状況を変えうる真の解毒剤となる場面をです。同じことはメディアの分野にも必要で、そうなればコミュニケーションは、憤慨させ、憎悪に駆り立て対立を招く、恨みをかき立てるものとはならずに、大衆が、批判精神をもって、つねに他に対する敬意を忘れずに、自分たちが生きる現実を冷静に考え、読み解く助けとなります。
心と心のコミュニケーション――「うまく伝えるには、たくさん愛すればいい」
「心をもって語る」模範として、もっとも輝いていて、今なお魅力的な一人が、聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士です。先ごろわたしは、その帰天400年に、彼についての使徒的書簡『トートゥム・アモーリス・エスト(すべては愛です)』を出しました。そしてこの大きな記念の年に加え、今年2023年に訪れるもう一つの記念にも触れておきたいと思います。ピオ十一世が回勅『レールム・オムニウム・ペルトゥルバティオネム(万物の混乱)』をもって、彼にカトリックのジャーナリストの保護聖人の称号を与えて100年となるのです。才気煥発な知識人にして多作の著述家、重厚な神学者であったフランシスコ・サレジオは、17世紀初頭、カルヴァン派との激しい論争があった困難な時代に、ジュネーブの司教を務めていました。その温厚な人柄、寛大さ、だれに対しても、自分に反論する人に対してはなおさら、粘り強く対話しようとする姿勢によって彼は、神のいつくしみ深い愛を示す希代の証人となったのです。彼について、「のどの麗しい声は、友人を増やし、舌のさわやかな語りかけは、愛想のよい返事を増やす」(シラ6・5)と評することができるでしょう。ですが何より、彼のもっとも有名なことばの一つ「心が心に語る」――これが、世代を超えて信者を励ましてきたのです。その代表が、自身のモットーにCor ad cor loquiturを選んだ聖ジョン・ヘンリー・ニューマンです。「うまく伝えるには、たくさん愛すればいい」というのが、彼の信念の一つでした。これが示しているのは、彼にとってコミュニケーションとは、今日でいうところのマーケティング戦略といった、仕掛けのようなものに矮小化されるものでは決してなく、魂を映し出すものであり、目には見えない愛の核が表に出て見えるものとなることだったということです。聖フランシスコ・サレジオは、コミュニケーションとはまさに「人が神への気づきを得るような、繊細でありつつ強烈な一本のプロセスが実現する、心の中での、そして心を通して」2のものだと考えています。「たくさん愛する」ことによって聖フランシスコは、ろうあ者のマルティーノとコミュニケーションを取り、友人となることができました。そのため彼は、コミュニケーションに障害のある人の保護者ともされています。
ジュネーブの聖なる司教は、その著作と生き方のあかしを通して、この「愛の基準」から、「わたしたちはコミュニケーションする存在」だということを思い起こさせてくれます。この教訓は、今の時代、とくにSNSで経験するような、コミュニケーションがもっぱら単なる道具と化し、世界がわたしたちをそうであるものとしてではなく、そうであってほしいものとして見る風潮に対抗するものです。聖フランシスコ・サレジオは、ジュネーブ地域で、自分の数々の著作を大量に普及させました。この「ジャーナリスト的」勘によって彼は、教区を超えてたちまち評判となり、それは今日まで続いています。彼の書は、聖パウロ六世が指摘したように、「痛快で、示唆に富み、励ましとなる」3読み物となっています。現在のコミュニケーションの姿に目をやれば、記事、ルポルタージュ、ラジオやテレビの番組、あるいはSNSの投稿が備えるべき特徴は、まさにこのようなものではないでしょうか。情報発信の担い手たちには、この優しさの聖人から刺激を受けて、勇気をもって自由に真理を追い求め、それを伝えられるようであるとともに、派手で攻撃的な表現を使おうとする誘惑には打ち勝っていただきたく思います。
シノドスの歩みの中で、心をもって語る
これまでも指摘してきましたが、「教会でも、耳を傾けること、互いに耳を傾け合うことはとても大切です。それはわたしたちが互いに差し出しうる、もっとも尊く豊かな贈り物です」4。偏見をもたずに、配慮と役に立ちたいとの意欲をもって耳を傾けることによって、神の流儀――これを身に着ける道は、近しさ、あわれみ、優しさです――で話せるようになります。教会では、心を燃え立たせ、傷をいやし、兄弟姉妹の道を照らすようなコミュニケーションが急務です。わたしが夢見る教会のコミュニケーションは、聖霊に導かれることを知り、礼節をわきまえ、かつ預言的なものであり、第3千年期に届けるよう召されている驚異のメッセージに、新たな文体と話法を見いだしうるものです。神との関係、隣人、とりわけもっとも助けを必要としている人との関係を中心に据えたコミュニケーション、自己言及的な自己認識の燃えかすを大事にするのではなく、信仰の火を燃え立たせるようなコミュニケーションです。耳を傾ける謙虚さと、語る大胆さ(parresia)を土台とするコミュニケーションであり、真実とあわれみを切り離してしまわないコミュニケーションです。
平和の言語を広めて、人々の心から敵意を取り去る
「穏やかに語る舌は骨をも砕く」と箴言には書かれています(25・15)。心をもって語ることが、今日ほど求められたことはありません。戦争があるところに平和の文化を広めるため、憎しみと敵意が荒れ狂うところに対話と和解の道を開くためです。わたしたちが今体験している地球規模の争いという悲劇的状況では、友好的なコミュニケーションの確立が急務です。「開かれた敬意ある対話に向かうよりも、屈辱的な形容詞を相手にあてがう」、「反対者の信用をすぐ失墜させようとする傾向」5を克服しなければなりません。対話に前向きで、包括的軍縮に尽力し、わたしたちの心に潜む戦争志向の解体に取り組む、コミュニケーターが必要です。聖ヨハネ二十三世が回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』で預言的に説いたように、「真の平和は相互の信頼の上にしか構築できない」(61)のです。自分の側の安泰にこだわることなく、むしろ大胆かつ創造的に、危険を顧みず、合意できる共通項を見いだそうとするコミュニケーターを要する信頼です。60年前と同様、わたしたちは今、人類が戦争の激化に怯える暗黒時代の中にあり、一刻も早くブレーキをかけなければなりません。コミュニケーションの領域もそうです。民族や領土の消滅を主張する言説が、これほどまでに軽々しく発せられているのを耳にするのは、おぞましいかぎりです。残念なことに、ことばはしばしば、残酷な暴力による戦争行為に発展するものです。だからこそ、あらゆる好戦的なレトリックは否定されなければなりませんし、イデオロギー目的のために真実を歪め捏造するプロパガンダは、何であれ否定されなければなりません。むしろ、民族間の争いを解決するための条件を整備するため、あらゆるレベルにおいてコミュニケーションが促進されなければならないのです。
キリスト者としてわたしたちは、平和の命運を決するのは、まさに回心であると知っています。戦争というウイルスは、人間の心から生じるからです6。閉ざされ分断された世界の闇に光をもたらし、これまで手にしたものよりもよい文明を築くための義のことばは、心の中から生まれ出るものです。回心は一人ひとりに求められている努力ですが、とりわけ情報伝達に携わる人々にとっては、自らの職業を使命として果たせるよう、責任感を呼び覚ましてくれるものなのです。
主イエス、御父の心からほとばしり出るままのことばであるかた、このかたの助けによってわたしたちが、コミュニケーションを自由で、廉直で、心あるものにしていけますように。
主イエス、人となったことばであるかたの助けによって、人々の胸の鼓動に耳を傾け、わたしたちが兄弟姉妹であることを今一度かみしめ、分断をもたらす敵意を取り除くことができますように。
主イエス、真理と愛のことばであるかたの助けによって、愛において真理を語ることができますように。そうしてわたしたちが、互いを保護する者であるとの自覚をもつことができますように。
ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月24日
聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士の記念日
フランシスコ