「神秘に満ちた苦しみの価値」
その祈りの一節に安らぎを見出したのは、山鹿教会の求道者である春木雄一朗さん(44)。病気で全盲となり暗闇に閉ざされてしまった春木さんは、お寺や神社、占いなどに何らかの救いを求めていたが、「希望の光」を灯してくれたのは、偶然に出会ったカトリック教会だけだという。
洗礼を控えている春木さんの長く苦しい道のりはまさしく「闇から光へ」の体験と言っても過言ではないし、イエスへの信仰の力を証明する話でもある。
今回の「光」編では、春木さんのイエスへの経緯をたどる。
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病気で視力を突然に失い、絶望の中、お寺や神社、占いなどに救いを求めていた熊本県山鹿市の春木雄一朗さん。自分の病気の意味を捜し求めてカトリック教会にたどり着く。そこで「神秘に満ちた苦しみの価値」を見いだす。
今回は、春木さんがカトリック教会やイエスとの出会いなどについて語る。
『光』編
Q.どうやってカトリック教会に出会いましたか
A. それは偶然でした。治療で通っていた病院の近くにカトリック手取教会がありました。昔から、町の中心にあり、遠くから眺めているばかりだった大きな教会です。カトリックとは何の縁もなく、聖堂に勝手に入っていいかどうか分からず、結局は敷地内の「ぶどうの樹」という店に入ってみました。
そして、とりあえず「お守り」という感覚でロザリオを手に取り、店員さんとの話の中で、山鹿に住んでいることを伝えると、山鹿にもカトリック教会があることを知りました。
そこで、電話をしてみると、女性の明るい声で対応していただき、訪ねてみることにしました。こうして僕は山鹿教会の門を開くことになります。
教会の皆さんは温かく迎え入れてくださり、僕の苦しみを聞いてくださり、僕のために祈ってくださいました。皆さんが僕の「隣人」になって下さったのだと思います。
しかし、さらなる試練が待っていて、ちょうどそのころ癌が見つかり教会に通えなくなってしまいました。
治療のため半年くらい教会に行けなかった期間がありましたが、後遺症が和らいできた頃から再び山鹿教会に通えるようになり、皆さんが僕のことを覚えていてくれてとても感動しました。
それから聖書を本格的に読み始めました。
目で読むことのできなかった僕は、耳で音声で聴いて聖書を学ぶことがでるようになりました。
Q.聖書のどういうところが印象的でしたか
A.やはり、こういう障がいを持っているため、聖書に書いてある「目が見えない人は、イエスのおかげで目が見えるようになった」という話が印象的でした。
最初に読んだ時は「信じられない!!」と感じましたが、それは文字通りの意味にしか読んでいなかったのだと思います。ところが、ミサに与かり、神父様のお説教を聞き、聖書を読み進めるうちに、心に変化が起きていきました。
失明したことに何らかの意味を覚え、神様はあえてそれを僕に与えられたのではないかと思えるようになったのです。
これこそ、カトリック公教要理で学んだ言葉ですけれど「闇の価値」ということでしょうか。
ビクトール・フランクルの「絶望=苦悩−意味」という言葉を聞いたことがあるのですが、この意味を捜し求めていたのです。
Q.その「価値」というのは何でしょうか
絶望に陥った自分が、教会生活を続けるうちに、絶望が神秘に満ちた苦しみに変わり、そこに価値や意味を見出せるようになったということだと思います。
まだまだ勉強中で、聖書やキリスト教がそんなによくは分かりません。
ですが、日常の中で、教会のミサ、信徒の皆さんとの交わり、教区報音訳CDの作成など、目的が見出せました。
また、目が言えなくなったことで、家族との絆が深まり、自分は孤独ではない、すでに満たされていたということに気づかされ、日々感謝の毎日です。
これが、僕のイエス様との出会いの始まりです。
洗礼を控えての今の気もち