「宣教師アルメイダ パネル展」―菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡― (5月31日終了)
5月1日(日)~31日(火)、菊池教会内の元菊池聖母幼稚園にて、「宣教師アルメイダ パネル展」が行われ、熊日新聞でも取り上げられました。
パネル展の様子
新聞でも紹介されているように、このパネル展は、菊池教会の松本隆子さんが中心となり、2015年に行われた企画展で紹介された時のパネルなどを再展示したものです。それらのパネルは、2008年、聖ザベリオ宣教会の最頼厳流神父と、山鹿教会の川本寛さんが中心となってまとめられたレポート『菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡』をもとに作成されました。
以下、そのレポートより 抜粋して、「宣教師アルメイダ パネル展」で展示された内容を紹介します。
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
切支丹ルートの存在
『菊地市の文化財』( P.83 、菊地市教育委員会発行)で、上木庭のキリシタン墓地の説明の中に、「この近くが豊後と高瀬を結ぶ切支丹ルートにあたることから注目されている」とあり、また、『山鹿市史(上巻)』(P.56、山鹿市発刊)にも「中世の交通路のうち、島原から高瀬津に上陸し、切支丹大名大友宗麟(義鎮・フランシスコ)がいた豊後府内(現大分市)にいたる最短距離は、山鹿・菊池・小国を経由する道路であった。 當時『伴天連』と呼ばれた宣教師らはこの道をよく利用した。」と書かれています。
玉名市指定重要文化財 吉利支丹墓碑の案内板には、イエズス会士ルイス・アルメイダが高瀬でキリスト教を布教したとあります。
また、『山鹿市史・下巻』(P.631 、山鹿市発刊)には、「菊池川といえばすぐ高瀬下りを思い出すが、その起源は恐らく天正年間(1573~1591年)にあるのではなかろうか。」と書かれています。
平戸、天草から船で有明海を渡り、高瀬(現玉名市)からは、菊池川を往来する船が利用できます。
豊後から、また、平戸、天草から布教の二つの流れの合流点に位置している菊池・山鹿はキリシタンを産む土壌であったと思われます。
◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿
菊池・山鹿のキリシタン取締りも厳しくなっていき、多くの人が転んで信仰を捨ててしまったと考えられます。
「山鹿地方では、切支丹の墓碑は一基も発見されていないが、切支丹の実在を裏付ける資料としては『古・転切支丹二期御断帳』が現存している。」『山鹿市史』(P.562)
山鹿郡津留村百姓九助、新町商人七郎左衛門、新町商人佐太郎がかつてキリシタンであったが転んだとの記載が、系図付きで書かれています。
それでも、信仰を守り、隠れキリシタンとして、したたかに生抜いた人がおりました。
上木庭のキリシタン墓地に、福本のキリシタン墓碑に、そして、津留のキリシタン墓地に葬られた人のように。
このように、迫害を逃れ、人に知られぬよう必死の工夫をして信仰を守りました。
・福本のキリシタン墓碑では、法名を彫りさらに地蔵を据え仏教画に擬装しました。
・竿部を十字に見立て、人物像をマリアと見て、茶室の庭に配したキリシタン燈籠。
・観世音菩薩に見せかけたマリア像のマリア観音像。
隠れキリシタンは、表に現れないだけに実態はつかめませんが、今回調べてみた限りでも、鹿本や山鹿に十字印が彫られた墓が残っており、今後調査がさらになされれば、より多くの存在が明らかになるのではないかと思います。
なお、最頼神父はレポートの最後に、
「『殉教者の血はイエス様の教会の種です』とは、ローマ帝国の迫害の時から伝わってきた言葉です。それは日本でも確認できる事実だと思います。菊池市と山鹿市のキリシタンの足跡は、現在の当地のキリスト教会の種であり、現在のキリストに従う者たちを実らせました。イエス様に従う私たちにとって、自分の先祖、その信仰を生きた人たちに対して大きな感謝を持つべきだと思います。
その感謝を現わす小さな印の一つとなることが、このレポートの目的でした。これに係わって働いた人たちに感謝しつつ、厳しい時代に信仰の賜物を守り伝えてきた菊池市と山鹿市のキリシタンたちに、私たちの普遍的な感謝を捧げましょう。 」
と語っています。