第59回 世界広報の日 (5月25日/復活節第6主日)教皇メッセージ
福音宣教はわたしたちの使命です。
「世界広報の日」は、この福音宣教の分野の中でもとくに新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画、SNSなどの広報媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考え、反省し、祈り、献金をささげる日です。
「世界広報の日」は、第2バチカン公会議で定められ、1967年以来、毎年、特別のテーマが決められ、教皇メッセージが出されています。
※「世界広報の日」の教皇メッセージは毎年1月24日に出されます。
これは、ジャーナリストやコミュニケーター(広報活動従事者)の保護の聖人である聖フランシスコ・サレジオ(フランソア・ド・サル)の記念日にちなんでの慣例です。
第59回「世界広報の日」の教皇メッセージ

~・~ テーマ ~・~
あなたがたが抱いている希望について、柔和に分かち合いなさい(一ペトロ3・15−16参照)
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
権力中枢にある少数者がかつてないほど大量の情報やデータを掌握していて、ニセ情報と分極化が蔓延するこの時代、ジャーナリストや広報担当者である皆さんの働きがいかに重要か――今日はこれまで以上に――理解したうえでお伝えします。他者に対する個人的、集団的責任をコミュニケーションのかなめとするため、皆さんの果敢な取り組みが必要とされています。
今年祝っている聖年を、激動の時代における恵みの時として心に抱く中で、本メッセージをもって皆さんを、希望の伝達者となるよう招きたいと思います。あなたがたの働きと使命を、福音の精神に従って刷新することから始めてください。
― コミュニケーションの武装解除 ―
今日、コミュニケーションから生じるのが希望ではなく、恐怖や絶望、偏見や憤り、狂信や憎悪ですらあることがあまりに常態化しています。実にしばしば、現実の単純化が衝動的な反応を招いています。神経を逆なでし、挑発し、傷つける意図でメッセージを放とうとして、ナイフのようにことばを利用したり、ニセ情報や巧妙にゆがめた情報すら用いたりしています。わたしはすでに何度か、コミュニケーションを「武装解除」し、攻撃性を削ぎ落とす必要性を訴えてきました。現実をスローガンに転化させたところで、何もいいことは生まれません。インタビュー番組からSNS上の舌戦に至るまで、競争、対立、支配欲や所有欲、世論操作のたぐいが席巻する恐れを、だれもが目の当たりにしています。
また別の憂慮すべき現象があります。デジタルシステムの介在による「注意力の計画的散漫化」とでも呼べるようなもので、市場の論理に基づいてわたしたちをプロファイリングし、わたしたちの現状認識を書き換えてしまうのです。そうしてしばしば否応なしに目撃させられるのは、関心のいわば霧化であり、それによる共同体の基盤、すなわち共通善のためにともに働き、互いに耳を傾け、他者の言い分を理解しようとする能力の損失です。そのようになると、自己を肯定するには、ことばで攻撃すべき「敵」を突き止めることが不可欠だと思えてきます。そして相手が「敵」になると、愚弄しあざ笑うことでその顔も尊厳もおぼろげになってしまい、希望を生み出す可能性もついえてしまうのです。トニーノ(アントニオ)・ベッロ師が教えているように、あらゆる紛争は「人々の顔がおぼろげになることにその根源があります」1。この流れに飲まれてはなりません。
実のところ、希望するのは決してたやすいことではありません。ジョルジュ・ベルナノスはこう述べています。「希望することのできる者たちとは、自分たちが希望だと誤ってみなしていた安全地帯に見出される錯覚や虚妄に絶望する勇気のあった者たちのみである。……希望は賭すべき危険である。危険中の危険ですらある」2。希望は、目立ちませんが、粘り強く忍耐強い徳です。キリスト者にとっては、希望は選択肢の一つではなく必須の条件です。ベネディクト十六世が回勅『希望による救い』で述べているように、希望するのは受け身の楽観主義ではなく、反対に、人生を変えうる「行為遂行的」徳なのです。「希望をもつ人は、生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」(2)。
― わたしたちが抱く希望について、柔和に説明する ―
ペトロの第一の手紙(3・15−16参照)は、希望をキリスト者のあかしと伝達に結びつけ、見事にまとめています。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」。このことばから引き出せる3つのメッセージに焦点を当てたいと思います。
「心の中で主とあがめなさい」。キリスト者の希望には顔があります。復活した主の顔です。聖霊のたまものを介して、いつもわたしたちとともにいてくださるという主の約束があるからこそ、望みの見えないときにもなお望みを抱き、すべてがついえたと思えるときでさえ、隠れた善の断片に気づくことができるのです。
2つ目のメッセージは、抱いている希望について説明する心づもりをしておくようにとの求めです。注目すべきは、使徒ペトロが「要求する人には、いつでも」その希望について説明するよう促していることです。そもそもキリスト者とは、神について「語る」人ではなく、神の愛のすばらしさと、すべてについての新たな生き方とを映し出す人です。生きて経験させられた愛こそが、問いを生じさせ、答えを求めさせるのです。――なぜそのように生きているのですか、なぜあなたたちはそうなのですか、と。
最後に、聖ペトロのことばにある3つ目のメッセージです。質問に対しては「穏やかに、敬意をもって」答えるべきというものです。キリスト者の伝達――いえ、あらゆるコミュニケーションについて申し上げます――は、柔和に、親しみを込めて重ねるべきです。全時代を通してもっとも優れた伝え手であるナザレのイエスに倣い、旅路をともにする者の語り口であるべきです。エマオへの道中、二人の弟子たちと対話を重ね、聖書に照らして出来事を説き明かし、彼らの心を燃え立たせたかたです。
この苦しい時代だからこそ、わたしには夢見るコミュニケーションがあります。多くの兄弟姉妹の旅路に寄り添い、彼らの内に再び希望の光をともすことのできるコミュニケーションです。心に訴える力をもち、決裂や怒りといった激しい反発ではなく、心を開く姿勢や友情を呼び起こすコミュニケーション、いかに絶望的に見える状況の中でも、美と希望を見据え続けられるコミュニケーション、他者に対する責任感、共感、関心を生み出せるコミュニケーションです。「一人ひとりの尊厳を認め、わたしたちの共通の家をともにケアする」(回勅Dilexit nos, 217)ことの励ましとなるコミュニケーションです。
幻想や恐怖を売り込むのではなく、希望するゆえんを示すことのできるコミュニケーションをわたしは夢見ています。マーティン・ルーサー・キング牧師は次のように述べています。「もしわたしが通りすがりに、だれかを助けることができたら、もしわたしが一つの言葉か歌で、だれかを励ますことができたら、……わたしの生きたことは無駄ではないであろう」3。それをするには、自己顕示や自己本位といった「病」を治さなければなりません。一方的にしゃべり立てる危険に陥らないようにしなければなりません。優れた伝達者は、視聴者、読者が、伝えられる物語に加わり、心を寄せ、そこから自分にあるよい部分を見いだす――、そうした姿勢で入っていけるようにするのです。このようなコミュニケーションは、聖年のテーマが謳う「希望の巡礼者」となれるよう、わたしたちを助けてくれます。
―ともに希望する ―
希望はつねに、共同体の事業です。恵みである今年のメッセージのすばらしさについて少し考えてみましょう。わたしたち皆、文字どおり全員が、新たに始めるよう招かれています。神にもう一度立ち上がらせていただくよう、神に抱きしめていただき、いつくしみで満たしていただくよう、招かれています。これらすべてにおいて、個人的な側面と共同体的な側面とが織り合わさっています。わたしたちは皆で旅路につき、多くの兄弟姉妹とともに巡礼し、一緒に聖なる扉をくぐり抜けるのです。
聖年には多くの社会的意義があります。たとえば、刑務所や収容所にいる人々へのいつくしみと希望のメッセージについて、また苦しむ人々や疎外されている人々への寄り添いと優しさを訴える呼びかけについて考えてみてください。
聖年は、平和のために働く人は「神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)ということを思い起こさせてくれます。このように、わたしたちに希望が開かれ、注意深く、柔和で、思慮深く、対話の道を示唆するコミュニケーションの必要性が示されています。ですから皆さんを励まします。ニュースのひだに隠された多くのよい物語を見つけ出し、それを伝えてください。砂金を求めて、ひたすら砂をふるいにかける金の採掘者をまねるのです。こうした希望の種を見つけ、それが知られるようにするのはすばらしいことです。世界が、底辺にある人の叫びに少しでも耳を傾け、少しでも関心を寄せ、少しでも開かれたものとなるべく、その助けとなってください。わたしたちを希望へ導く善のきらめきを、いつも見つけ出せるようでいてください。こうしたコミュニケーションがあるから、交わりが織り成され、孤独ではないと感じられるようになり、ともに歩むことの大切さに気づけるのです。
―心を忘れない ―
愛する兄弟姉妹の皆さん。テクノロジーの目まぐるしい進歩を前にして、皆さんを招きます。あなたがたの心を、すなわち内的生活をケアしてください。どういうことでしょうか。いくつかのヒントを差し上げます。
柔和でいること、ほかの人の顔を忘れずにいること。あなたがたが働きを通して奉仕する人々の、心に語りかけること。
衝動的な反応によって、あなたがたのコミュニケーションが左右されないようにすること。困難なときでも、犠牲を伴うときでも、実を結ばないように思えるときでも、いつだって希望の種を蒔き続けること。
傷を負ったわたしたちの人間性を回復させうるコミュニケーションの実践に努めること。
心からの信頼に場を譲ること。その信頼は、細くとも丈夫な花のように、人生の嵐に折れることなく、思いも寄らない場所で咲き育つのです。紛争地の塹壕からわが子の帰還を日々祈り続ける母親たちの希望の中に、よりよい未来を求めて限りない危険と激動の道のりを移動する親たちの希望の中に、戦闘による瓦礫の間でも、貧しいスラム街の路上でも、遊び、笑い、人生を信じる子どもたちの希望の中に、花開くのです。
敵意のないコミュニケーションの証人となり、推進者となって、ケアの文化を広め、橋を架け、この時代の見える壁と見えない壁とを突き破ること。
わたしたちの共通の運命を心に掛け、未来の物語を一緒につづって、希望に満ちた物語を語ること。
これらすべてのことは、神の恵みによって、あなたがたにも、そしてわたしたちにも、行うことができるのです。聖年はその恵みを、豊かに受け取らせてくれます。そのためにわたしは、あなたがた一人ひとりのために、またその働きのために祈り、祝福を送ります。
ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2025年1月24日 聖フランシスコ・ザベリオの記念日に
フランシスコ