ものがたり

証言 〜満州引揚げと神の導き〜(前編)

Testimony: the Exodus from Manchuria after the War & a Guidance of God 

 戦後76周年を迎え、満州から引揚げてこられた安部由子さん(熊本市在住)から体験に基づく証言をいただいた。中国満州には終戦時約155万人の居留日本人がいた。ソ連軍によってシベリア送りになった方もいれば、南に下って引揚げ船を待つ方もいた。遼寧省の葫蘆島から引揚げが始まったのは昭和21年5月7日で、昭和23年9月20日にかけて105万人余りが博多に帰ってきた。安部さん一家は早い時期の引揚げ船に乗ることができたが、壮絶な体験をされた。

 引揚げからの歩み、戦後の生活、キリスト教との出会いなどを3回にわたり紹介する。今回は前編。

 

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「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマの信徒への手紙11・36)

引揚げ船のルートと安部さん

 

満州からの引き上げが神を探す旅の始まり

 昨年からの新型コロナウイルスの影響がいまだに続いていますが、ようやくワクチン接種が始まり少しは安堵しました。とはいえ、いまだに密を避けなければならず、多くの人の生活は、失業した人、そして一食しか食べられない人もいます。

 

 しかし、今のコロナよりも75年前の終戦の時の方が大変だった事を思い出します。当時の事を記憶しているのは80歳以上の人たちです。私は、終戦から一年経った昭和21年に満州から引き揚げて来ました。中国の大地を歩き続けるなか、途中で多くの人が亡くなり、悲しみと苦しみを味わいました。

葫蘆島で引揚げ船を待つ日本人(毎日新聞)

 当時六歳だった私は、同級生の三分の一が引き揚げ船に乗ったものの病死し、水葬で日本海に沈められたのです。中国遼寧省の葫蘆島から日本の博多港に着いた時、二足の靴を履きつぶしスリッパを履いていました。生後八ヶ月の妹を背負っての上陸でしたが、父の実家の八女郡鵜池の祖母の所に帰りました。食べるものは、米が無く芋や小麦粉での代用食でした。昭和21年6月に、祖母の家から小学校に通いました。その年の12月のことです。担任の先生が産休で、代わりに若い男の先生が来て、クリスマスについて話されました。「キリストは何も悪い事はしていなかったのに、皆の身代わりになって、十字架に張り付けにされて亡くなった。彼は神さまでした…」と。その時初めてキリストの話を聞きました。身代わりになる人間なんているのかと、心の内に感動を覚え、同時に「キリスト」「十字架」ということばが、消えないほど焼き付けられました。こうして神を探す旅が始まったのです。

 

 二年生の時、八女市に移り、川の近くの所に住んでいました。四年生になった時、父母の間に争いがあり、母は家を出ていきました。父は肺結核で働けず、母が家を出た理由もわかりません。父は家財道具を売り、布団まで売って私たち子ども五人を食べさせてくれましたが、父の病が重くなり、国立病院に強制入院しました。

 

 こうして私が弟たちの面倒をみることになります。私が九歳、弟が七歳と五歳、妹が三歳、一番下の弟が一歳半です。その頃の肺結核は死を意味していましたから、今のコロナのように恐れられ、人は近づきませんでした。近所の人も、親戚も近づきませんでした。誰も助けてくれる人はなく、役場から配給されるパン券とか、芋や小麦粉等、次の配給まで一日一食でした。私はやりくりしながら弟妹を食べさせました。末弟のため、田舎の農家を訪ね、なすび一本でもと頼みました。なすび一本を弟に食べさせた事もあります。ひもじい思いをしましたが、食べられなくても、つらいとは思いませんでした。弟妹と一緒にいることが幸せだったからです。

 

 学校には行けませんでしたが、弟妹でいろんな事をして遊びもしました。夕方五時の汽車が通過すると、弟妹で線路の中に落ちている石炭の燃えかすのコークスを拾い、それが我が家の燃料です。製材所に行って小さな板片をもらいました。川の水で身体を洗い、弟のおむつの洗濯も川でした。三日に一度は父を見舞いましたが、弱っていく父の姿を見ながら、心細さを隠して元気に振る舞い、帰る時は夕陽だけが私の心細さを知っていました。

  

別れと出会い、そして受洗

昭和20年代の乳児院と児童養護施設
(福祉新聞)

 毎日生きること…、一日に一食の生活…、二日食べられない時は祖母の所へ…夕方から弟をおぶって四キロの道を歩いて祖母の所に行くと、精一杯のものを持たせてくれ、街灯のない夜道を歩いて帰ったこともあります。

 

 ある時、いつも配給物を持ってきてくださる役場の青年が三百円くださいました。子どもたちだけで生活しているのを見かねての事でしょう。私は、お米と牛肉50匁(約180グラム)と醤油を一合買って牛肉の炊き込みご飯をつくり、弟妹に「おかわりしていいよ」と、腹一杯食べるように言うと、妹が「姉ちゃん大好き」と満面の笑み…、初めての牛肉でした。

  

 秋になってから川の水は冷たく水浴びもできずにいました。父を見舞いに行っての帰りに結核患者さんに呼び止められました。石鹸と入浴代をくださり「ラジウム温泉に行きなさい」と…。二カ月も体を洗っていないのを見かねての事でしょう。弟妹を連れて風呂屋に行きました。二回分の入浴代金でした。弟妹は皮膚病になっていたのですがよくなりました。この親切なお二人の顔を今も忘れる事ができません。

 昭和24年10月下旬、末弟をおぶって役場の人と一緒に行った先が大刀洗のカトリック福岡司教区が経営する乳児院(清心乳児園)でした。その時、神父様が聖堂を見せてくださいました。そこで私が探し続けていたキリストの姿、十字架を見たのです。「神様はここにおられる」と胸が一杯になりました。弟を預けて家に帰った時、初めて声をあげて泣きました。後追いする弟の泣く声が耳について離れなかったのです。

  

 数日後、二番目の弟と妹は久留米の児童相談所に連れて行かれました。すぐ下の弟は養子に出され、私は戸畑の叔父(父の弟:南方戦線で斥候から戻ると部隊が全滅、生き残った一人)の所に行きました。叔父の所は貧しく二食しか食べられません。学校に行かせてもらいましたが、昼食は無し…。遠足の時、麦飯におかずは竹輪が一本だけ! 友達もできず私の心は弟妹と離れて淋しく、いつも曇り空でした。

  

 12月になって父の死が知らされ、八女に戻って、すぐ下の弟と叔父の三人で父の骨を拾いました。葬式は祖母の家で、親戚が集まっていましたが、私は一言も発せず、涙一つ見せませんでした。悲しみを必死にこらえている中で聞こえてくるのが私の親の悪口でした。人間って、こんなに残酷になれるものなのか…と。

カトリック今村教会(福岡県三井郡大刀洗町)

 

 父の死後、私は祖母の所へ戻されました。祖母の所にいるのは……と思い、自分で生きていこうと決心し、片道の電車賃だけもらってカトリック今村教会に向かいました。司祭館に行きお会いしたのが糸永一神父様です。父の死と弟妹のことを話し、自分が行くところがないことを伝え「どんなことでもします。一生懸命働きます。ここにおいてください」と言うと、神父様は「ここにいなさい。そして学校に行くのですよ」とにっこり微笑なさいました。神様はここにおられると感じました。修道院から学校に行くようになって、シスター方の優しさに触れ、学校の友達も信者が多く、いつも教会で遊び、心から笑える私になっていました。そして、キリストのことを学び、五年生のクリスマスに洗礼を受けたのです。(次号に続く、中編は9月中旬に掲載予定)

  

  

  

(手取教会(熊本市中央区)の「手取だより」391号より転載。原文執筆者の許可を得て、福岡教区ウェブサイト用に編集いたしました。→手取教会HPはこちら


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