証言 〜満州引揚げと神の導き〜(中編)
Testimony: the Exodus from Manchuria after the War & a Guidance of God
戦後76周年を迎え、満州から引揚げてこられた安部由子さん(熊本市在住)から体験に基づく証言をいただいた。中国満州には終戦時約155万人の居留日本人がいた。ソ連軍によってシベリア送りになった方もいれば、南に下って引揚げ船を待つ方もいた。遼寧省の葫蘆島から引揚げが始まったのは昭和21年5月7日で、昭和23年9月20日にかけて105万人余りが博多に帰ってきた。安部さん一家は早い時期の引揚げ船に乗ることができたが、壮絶な体験をされた。
引揚げからの歩み、戦後の生活、キリスト教との出会いなどを3回にわたり紹介する。今回は中編。
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「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマの信徒への手紙11・36)
苦しみ憎しみを通しても神は学ばさせる
洗礼を受けてからの私は幸せでした。末弟ともよく遊びましたが、三歳になると養護施設にやられ、それきり逢えなくなりました。私は六年生になって小児結核にかかり、半年間、学校を休み静養しました。しかし、今村での生活によって、私は内的に信仰の恵みを沢山受けていました。ご聖体への信仰と聖母マリア様への信心は深められ、その後の人生に深く係わっていきます。
私が望むようにずっと今村にいる事はできないと分かっていました。十八歳になった時、中学三年生になった次男を引き取れとの通知が来ました。その頃の日本は戦後から立ち上がる時で、貧しく生きる事に必死だったから、孤児も多かったのです。私は弟妹のためと、出て行ってしまった母を探し再会することができました。しかし、母を赦すことはできず、母の姉の伯母の所に弟と二人で身を寄せ、衣料品店をしている伯母の店で働きました。当時、四千円の給料の中から食費代として三千円を払い、残りの千円のうち二百円を弟の小遣い銭とし、八百円が私の生活費でした。
弟が中学を卒業し、神戸の理髪店に就職すると、私は弟の近くでと京都で働きました。結婚を望んでいなかった私に、祖母は弟妹が帰るところができる家庭をつくるべきだと…。私は神に祈りました。「すべて神様の思うとおりにしてください。私は自分を捨てます。これからの人生はあなたが導き支えてください。識別を与えてくださるように…」と。こうして導かれるままに、素朴な男性安部と別府の教会で挙式し、安部の勤務先の熊本に来たのです。
手取教会に転入しましたが、私は一人で生きてきたところがあり、気が強く夫とは喧嘩ばかりでした。ある時、夫から「何故素直になれないのか…」と言われました。その言葉を受け「ハイ」という言葉で従おうと決心しました。ミサにさえ行かせてもらえればよい。何よりもミサに行くことを第一とすることが、子供たちの信仰教育につながる…と決心したのです。
妹が施設から出てくると、私の所から妹が望む東京のバスガイドに就職し、三年間働きました。末弟も私の所に来て、熊本で就職したのですが、いじめにあい阿蘇で自殺未遂…。阿蘇の警察署に引き取りに行きましたが、弟の苦しみは母への憎しみとなり、母を決して赦すことはできない…頭で分かっていても、私の心は深い傷を受けていました。自分を生んでくれた母親を赦せない心…、その苦しみは地獄の苦しみでした。聖堂では主にぶちまけた事もあります。「イエス様、私の心は決して分かりませんよね。何故ならあなたのお母様はマリア様ですから…」と。
弟は大阪に行き、とても苦労したようですが、仕事にも負けない人生を歩みました。母は何事もなかったかのように私の所へ来ていましたが、私は自分の心を明かしませんでした。その後、母は神戸の弟の所へ行きましたが、弟夫婦とはうまくいかず、一年も経たないで私の所へ戻って来ました。ある日、母の体調がおかしくなり病院に連れて行くと、子宮癌で手術はできずあと半年の命だ…と。その時、心に強い衝撃を受けました。「神様、母を赦します。時間をください…」と心から祈り願ったのです。
すぐ下の弟に知らせました。弟は医学の道へ進みました。福岡の大きな病院の院長が弟を医学へと勧めたのです。弟は学校ではいつも首席でしたから、院長先生に見込まれたのでしょう。弟は四人の子の親となっていて、毎日院長の片腕として働いていたのです。弟も母を赦してはいませんでしたが、弟が勤める病院で、母を保険のきかない特別の手術をし、三百万円近くを弟が払ったのです。私は母の事で弟嫁の実家へ行き謝りました。
母のことをウルスラ修道会のシスターに頼むと、シスターは毎週母の所に行って話してくださいました。母は神の事を知り、キリストへの信仰へと導かれました。一年後に退院し、別府で生活するというので、私は初めて私の心の内を話しました。弟妹が半年間一日一食の生活をした事、施設に預けられての生活、末弟の自殺未遂の事などを静かに語りました。母は自分の犯した罪に泣き、そして、母は今まで針の筵だったと…。母は別府教会で受洗した三年後、神父様とシスターに見守られ天に召されました。六十四歳でした。母の顔は初めて見る安息の顔でした。
神様が…私を安部家に嫁がせた
安部家は大分県速見郡山香町という所にありました。山の中腹に家があり、見晴らしのいい所です。盆と正月は夫の兄姉全員が集まり、互いに分かち合うとても仲が良い家族です。子どもたちは、自然の中で、川では魚釣り、山では山菜採りなど大いに喜びました。
安部家は四百年以上続く旧家です。ある時、義母が私を連れて裏山に登りました。山の上には大きな岩があり、そこから水が流れています。その水はとても美味しく安部家の生命の水でした。そこで義母が、安部家の家訓を話してくださいました。「互いに仲良くしなさい」と言う家訓で、争えばこの岩の水は止まると伝えられている…。私はアレ!「互いに愛し合いなさい」…キリストの言葉(ヨハネ15・12)と同じだと思いました。何故私は安部家に嫁いだのかなとふと思いました。車で10分程行くと、大分トラピスト修道院。日出(ひじ)の殉教公園までは10キロ。山香にも殉教があったのだろうと考えました。少し離れた院内安心院(いんないあじみ)にも殉教があったと…、詳しい事は分かりません。
年を経て義母は亡くなり、安部家にも水道が来ました。台所を改築し、昔からあったかまども無くなりました。かまどの火を見ることが楽しみだった子どもたちはがっかりしていました。山からの水は今も流れています。
ある夏のお盆の時の事です。安部家の裏山の草を刈った所にお墓のようなものがありました。そこは行き倒れになった人たちを祀って守ってきたとのことでした。よく調べてみると十字架のついた墓石がありました。安部家の先祖は恐らくキリシタンで、徳川時代にキリシタン弾圧が強化されてから荒らされたのだろうと思いました。神様が私をこの家に嫁がせるには理由があったのだと思いました。
安部家はフランシスコ・ザビエル豊後布教の通り道に…
安部家の屋号は平(ひら)で、平の庄といえば、安部家だと知られています。平の庄に大きな屋敷があります。日出城の殿様が鷹狩りに来られるときのお休み処となっていました。吹き抜けの屋敷の中で奥の殿様の座敷だけは天井板を張る事が許されていたとの事。家から正面に見える山、西鹿鳴越(にしかなごえ)峠が狩りに適していたようです。
1549(天文18)年12月3日に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルは平戸・山口・京都を訪問しながら各地で布教活動に励み、1551(天文20)年9月に山口から徒歩で豊後・日出の青柳港にたどり着きます。港に停泊中のポルトガル船が祝砲をあげて出迎えると、その轟音に驚いた大友義鎮(後の宗麟)がザビエルを大友館に招き謁見が実現します。こうして豊後国におけるキリスト教布教の歴史が始まるのです。日出の地がその出発点となりザビエルの布教行路に安部家の平の庄が記されています。この道を西鹿鳴越道と呼びますが、「ザビエルの道」と言われています。
(写真は日出町歴史記念館令和3年第2回特集展「ザビエル来豊から470年を経て」から)
(次号に続く、後編は10月上旬に掲載予定)
(手取教会(熊本市中央区)の「手取だより」392号より転載。原文執筆者の許可を得て、福岡教区ウェブサイト用に編集いたしました。→手取教会HPはこちら)