ものがたり

証言 〜満州引揚げと神の導き〜(後編<最終回>)

Testimony: the Exodus from Manchuria after the War & a Guidance of God 

 戦後76周年を迎え、満州から引揚げてこられた安部由子さん(熊本市在住)から体験に基づく証言をいただいた。中国満州には終戦時約155万人の居留日本人がいた。ソ連軍によってシベリア送りになった方もいれば、南に下って引揚げ船を待つ方もいた。遼寧省の葫蘆島から引揚げが始まったのは昭和21年5月7日で、昭和23年9月20日にかけて105万人余りが博多に帰ってきた。安部さん一家は早い時期の引揚げ船に乗ることができたが、壮絶な体験をされた。

 引揚げからの歩み、戦後の生活、キリスト教との出会いなどを3回にわたり紹介する。今回は後編(最終回)。

  

◆前編・中編はこちら⇨ 証言 〜満州引揚げと神の導き〜

  

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「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマの信徒への手紙11・36)

  

安部由子さん

「大分合同新聞」から

 日出城から平の庄までの道は殿様街道と呼ばれていたそうですが、今はザビエル街道と呼ばれています。“けもの道”のような険しい道でしたが、フランシスコ・ザビエルが数人をお供に連れて山口を出発し、豊前平野を通る時、宇佐神宮周辺の反キリスト者を避けるためにこの道を選んだのです。山浦から山香の“けもの道”を下ってきた所が平の庄でした。フランシスコ・ザビエルは疲労で倒れてしまい、平の庄で休まれた後に殿様街道を歩いて日出の青柳港に向かいます。ザビエルはイエズス会宣教師の日本渡航に尽力した友人の貿易商ガーマの船で鹿児島に上陸し、山口、京都方面まで出向いていたのですが、日出の港にガーマのポルトガル船が来ていることを知り、山口から使いを豊後に送りました。使いの者が大友宗麟の招待状とガーマ船長の返事を持って帰ってきたので豊後に向かったのです。「日出の青柳港に停泊していたポルトガル船で内府(大分市)の大友館に招待され大友宗麟と対面した…」と、『大分合同新聞』に掲載され驚きました。

平の庄安部家で休まれたのなら安部家の先祖はザビエルに逢っているということです。私は言葉も出ませんでした。安倍家には、キリシタン研究の資料を集めていた大分のサレジオ会の神父様方が古くから訪ねて来られていました。また、NHKが来た事もあります。山香では日出城の家老加賀山半佐衛門がその息子のディエゴと共に殉教。山香の信徒たちの身代わりになったと伝えられています。徳川時代になってキリシタン弾圧が厳しくなりました。

サレジオ会のマリオ・マレガ神父収集のキリシタン関連古文書がバチカンに届く
(2019年11月NHKニュースから)
バチカン図書館にマレガ文庫を設け日本キリシタン研究が始まっている
(2019年11月NHKニュースから)

 

「マリア年」にジョー神父から信徒会長を命じられる

 34年前の1987年は「マリア年」でした。主任司祭のジョー神父様によって、私が手取教会の信徒会長にされたのです。役員会にさえ出たことのない私です。福岡司教区としては初めての女性会長です。恐くて「神のみこころは…」と祈り、聖書を開くと次の言葉が目に飛び込んできました。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙3・15)、「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(詩編95・7)……。私は涙が止まらず五日間悩み祈り続けました…。そして、神がされる道具になれば良いのだとわかって引き受けることにしました。しかし、引き受けたものの現実はやさしいものではありませんでした。男性優位の教会で、精根尽き果て、三カ月経ったところで、辞めようと神の許しを願うため聖堂で祈りました。コーフィルド神父様が背面ミサ(第二バチカン公会議以前のミサ形式)をなさり、それに与りました。閉祭の祝福を受けた瞬間「私が共にいるではないか…」と内的な声が聞こえました。「主だ…」と目に涙が溢れてきて、恐れがなくなり、すべてを主に委ねることにしました。

 

 宣教百周年の準備を始めた時でしたが、男性信徒が中心に働いてくださり、「私にできる事は…」と祈りの中で問い続けました。そして教会の土台をつくる事だとわかりました。その頃、手取教会では信徒を住む町によってABCの三地区に分けていました。二十年先の事を考えると、信徒が動くためには倍の六地区にし、地区長はその地区で選び、二年間働いてもらい、次の人も地区ごとに選び、いずれ地区長が役員会に参加してもらえば教会は変わっていく…と考えたのです。

 

 ジョー神父様に許可をもらい六地区にしました。名簿を作成しましたが、間違いだらけで不評でした。でも私の務めはまず土台づくりで、その後は次の会長に委ねればよいのだと信じました。ジョー神父様の提案で、信徒会長は男性・女性と二年で替えるようになさいましたので、いつの間にか手取教会は信徒が信頼し合い、助け合う良い教会になっていき、今日までそれを見てきました。

  

妹は約束を守り「アヴェ・マリアの祈り」を欠かさなかった

最後に妹と聖母マリア様の事をお話しします。末娘の結婚式に東京から妹が来てくれました。その時、妹が聖母マリア様の御絵(奇しき薔薇の聖母)を欲しがりましたので、アヴェ・マリアの祈り(めでたし)を教え、「毎日一回唱えて祈るならばあげてもいい」と言うと、妹は「約束する」と喜んで持って帰りました。その六年後、2000年6月23日の午前中のことです。「東京に行きなさい」と突然女性の声が聞こえました。まわりには誰もいません。マリア様からだと直感し、その日のうちに東京に飛びました。妹が癌で入院している事は知っていました。入院先の病院に行くと、「あと一週間だろう…」と主治医の話を聞かされ驚愕しました。妹は「家に帰りたい…」と言うので、主治医の許可をもらい、妹を連れてアパートに帰りました。風呂に入れ、その晩は何十年振りかで、二人で寝ながら話をしました。その時、妹が「洗礼を受けたい…」と言いました。箪笥の上にマリア様の御絵とローソクがありました。これを見て、アヴェ・マリアの祈りを欠かさなかった妹に聖母が知らせてくださったと確信しました。一晩だけで病院に戻りましたが、私は、近くのカトリック小平教会に行き、妹の受洗を願い、その時葬儀の事も頼みました。妹は6月26日に洗礼を受け、3日後の29日に静かに永遠の旅路につきました。

  

* * * * *

  

 満州からの引揚げに始まりここまで語ってきましたが、現在82歳になって、私は苦労したとは思えないのです。“神はいつも側にいてくださる”神が共にいてくださった私がいて、私は一番神から愛されていたんだ……。今は、病気を持っていますが、その病気があるから祈る時間があり恵みをいただいています。妹の死を通して聖母への祈りの大切さを改めて感じました。「アヴェ・マリアの祈り」を通して多くの人が救われることを身をもって体験してきました。すべて神に感謝です。(完)



(手取教会(熊本市中央区)の「手取だより」393号より転載。原文執筆者の許可を得て、福岡教区ウェブサイト用に編集いたしました。→手取教会HPはこちら


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